2007年9月 3日 (月)

宮本常一が「大図解シリーズ」に登場!

昨日9月2日(日)の中日新聞・朝刊を見た

サンデー版として「学校の教材に役立つ大図解」に
なんと宮本常一が登場!

この大図解シリーズは、小中学生にもわかるよう
社会・経済・政治・文化・国際問題など今日の話題を取り上げている

大人もけっこうこれを読んでいる
難解なことがよく理解できて役立つことも多い


そこに「宮本常一」の登場だ
いや~驚いたなぁ~
いよいよ宮本ブームかな、?
まさか!

「旅に生きた民俗学者、宮本常一」というタイトル
なぜ、いま宮本常一か!
お定まりのノンフィクション作家・佐野真一氏が書いている

今年は生誕100年だ
各地でイベントもいろいろあった
東京都府中市郷土の森博物館や
生まれ故郷・周防大島文化交流センターなどで
特別展や講演会など開催された
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私も府中市での特別展・講演会に参加した
また、生まれ故郷の瀬戸内海・周防大島へも行ってみました
詳細は私のブログ・カテゴリーの「宮本常一の世界」を読んでくださいね

宮本常一はすごく偉い人だったという顕彰よりも
宮本がめざした意思やその精神を引き継いでいくことの重要性を実感しました

疲弊した田舎をどう立て直すか、
何も知らない国からのバラマキ補助金なんていうものじゃなく
自立した地方の庶民が生きていける技術や知恵を育てていくこと
これが一番必要だということだ、と思う
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日本地図が赤くなるほど歩きに歩いた宮本常一
民俗学者、という顔より地方を救う、よき相談者・指導者のような役割が多かった

佐野氏が書いているように
今の腐りきった政治家・官僚に対する怒りや
日本社会の荒廃に対する嘆き・不安が
この「忘れられた日本人・宮本常一」に
今、注目が集まっている理由ではないだろうか
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私は、それに加えて現在の「旅ブーム」、「歩きブーム」が後押ししているように思う

中高年を中心に多くの人が、
健康のために始めたウォーキングがだんだん歩くうちに
対象としてみる風景に心を動かされ、
歩けば歩くほど地方が疲弊していることの現実を
肌で実感したのではないか、と思う

これが車も鉄道もない山深く、あるいは離島へと自分の足で
歩き続けた先人・宮本常一を尊敬と驚きのまなざしで見るようになった

しかし、マスコミで取り上げられるとブームが広がるほど
萎むのも早く、またまた「忘れられた日本人」になってしまう恐れがある

大図解シリーズでの登場は歓迎すべきことだが
これまで、コツコツと、しかし着実に育ってきた
各地方の小さなミヤモト達をやみくもに騒ぎ立て
芽を摘むことはやめなければ、無駄になる

とにかく一人一人が歩いてみて、自分で見て、自分で考える
ここから始まるということだ

宮本の父・善十郎の10ケ条はその原点である

2007年6月30日 (土)

1090回めの土佐源氏

坂本長利の一人芝居「土佐源氏」を観た
この芝居については前から評判を知っていたが
なかなか出会うチャンスがなかった

今回は
府中市郷土の森博物館開館20周年・宮本常一生誕100年記念特別展
に合せた企画のひとつとして公演されるものだ

事前にはがきで申し込み多数の場合は抽選になるらしい
やきもきして待っていたら10日前にやっと届いて「当選おめでとう」だ
やはり人気が高い

公演は23日に1回、24日に2回の3回公演
各回100人だから300人のみがOKさ

23日は夕方17時30分から開演
会場は博物館内にある旧田中家住宅和室だ



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博物館では今回の特別展にそうとう力を入れているようだ

園内では、あじさいまつりも開かれている

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今回の公演会場となる旧田中家住宅は
甲州街道・府中宿を代表する商家で
明治天皇行在所にもあてられていた
移築された土蔵や表門がなかなか立派である

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入り口に看板があった

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まだ1時間もあるのに受付は並んでいる
お客も入れ込んでいるぞ
期待が高い

2000円の参加費を支払って靴を脱ぎ会場に入る

10畳程の和室が3つ
襖をはずして縦長の通しの間になっている
その中央に黒い布で覆われた2畳ほどの高くなった舞台がつくられ
その上に15センチほどの太いローソクが一本おかれているのみ
背後は黒い暗幕である

座布団が敷き詰められこれが観客席だ
最前席は舞台からわずか畳一畳分離れているだけ
ほとんどかぶりつき状態

早くも前の特等席は埋まっている
2番目に陣取った
一人で着た赤いTシャツの若者
府中市の中年女性ふたり連れ
演劇好きらしい男
宮本ファン
混在の観客
年齢層も幅がひろい
観てみたい、という一点では共通している

開演時間が迫ってくるとどんどん人が増えて
それによって部屋の温度が上がってくる
観客の熱気も加わる

お互い同士の会話を聞いていると
どうやら宮本常一の企画展の関係者もいるようだ
周防大島からの人もいる

開演のあいさつがあり部屋の電気が消される
そしてローソクに火が入る
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会場を静寂が包む
音がしてくる
どうやら太鼓のようだ

その音が観客を徐々に特別な世界に誘いこんでいく

風のうなり声にかわり、暗闇から何かが現れた
モゾモゾという音にハーハー、ゼイゼイという息づかい

ござで体全体を包み隠し、のそりのそりと近づいて
舞台の中央に現れた奇妙な人物

ドキリとする瞬間だ


「わしの話を聞きたいとおっしゃるのか
わしゃ、何もしらんぞ」

ポツリポツリと口が開き
少しずつ戸惑うように話し始める

遠い昔を懐かしく、あるいはため息まじりに

ご存知「土佐源氏」は宮本常一の名著「忘れられた日本人」の
なかで取り上げられた聞き取り話のひとつだ

土佐榛原で暮らす盲目の老人の話

牛を売り買いするばくろうの女遍歴を語るというもので
芝居はおおむねこれにそって展開していく

一人芝居も始めて観たし
坂本の芝居も始めてだった

トツトツと語る場面や大きく身振りする、あるいは
話し疲れてゴロンと横に寝てしまう

また起き出して
「あ、あの時はそうじゃった…」と次に展開していく構成

時折、観客から笑いも聞かれる

私の予想していたのはもっとどろどろしたものというイメージだった
闇の中で生きる凄さのようなものが底流を流れている
そんなことを想像していた

でも違った
意外に明るいのだ
というより自由奔放に生きた男が
盲目となったいま封印を解き自らが解放されるというような印象だ

いろいろ騙しもしたが牛と女は騙さなかった
庶民のずるさとしたたかさ

「かかあがもうじき戻ってくるでな、
 おなごのはなしはここらでやめよう」

吹き荒れる風にござを飛ばされそうになって舞台から消えていく

ながい余韻があった

舞台が明るくなって俳優・坂本長利が登場する
拍手が起きる
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演じられた男はどこに消えたのか
ここにはダンディな男・坂本がいる

あいさつが始まる
「きょうは1090回目の公演です
みなさんが呼んでいただきこれまで続けられることができました」

大きな拍手

「諸外国にもいろいろ公演いたしました
日本語でセリフを全部言うんですが、笑うところは同じなんですね
どうして分かるんでしょうか
不思議です
日本語って素晴らしいと思います」
などユーモアをまじえたあいさつ

40年もライフワークとして演じ続けた味がにじみ出ていた
今年77歳で多分生涯演じていくだろうと思う

私としても恐らくもう二度と観る機会はないだろう

宮本常一の世界をこうした形で伝え遺されている

見ごたえのあるお芝居を堪能しました


2007年6月29日 (金)

特別展「宮本常一の足跡」に行く

今年・平成19年は、民俗学者・宮本常一の生誕100年だ。
明治40年8月1日、山口県の周防大島で生まれ今年で100年目というわけだ。
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東京都府中市郷土の森博物館では開館20周年記念として
特別展「宮本常一の足跡」が開催されている

ネットはありがたい
岐阜の西美濃にいても、こんな情報が手に入るのだ

それにしても「なぜ、府中市なの?」という疑問

その理由がわかった
宮本は昭和36年から73才で亡くなるまでの約20年間は
府中市に家族と住んでいたのである

そればかりか
市内を何度も歩き「府中市史」の調査、執筆など
いろいろ関わっていたのだ

そこで、無性に行ってみたくなり
ノコノコと出かけたのである

新宿から京王線「分倍河原」駅下車、バスで約5分
郷土の森は全体が公園のようになっており緑豊かな施設だ
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なかでも、けやき通りは歩いていても気持ちがいい
園内では、明治から昭和まで旧い民家や商家などが
移築されてかつての府中市の面影が見られる
こうした施設の構成にも宮本が関わっていたようだ
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特別展はこの博物館の中で開催されている
概観は大きな和風民家のようにもみえる

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博物館の中に入って驚いた
左手にミュージアムショップ、資料室、右手に喫茶コーナー
少し奥に今回の展示会場、さらに右奥はプラネタリウム

全体をつつむ雰囲気がとても温かい
そして賑わっている
子供から高齢者まで、そろっているのもいいな
これも宮本精神がどこかで生きているような気がする

よく、博物館へ入ると何となく空気が冷たくて
知識やモノやアタマだけが先行して
お仕着せの展示が鼻につくところが多いが…

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特別展の入り口には
「宮本常一の足跡~旅する民俗学者の遺産」
と書かれている

宮本はいつも笑っているか、何か真剣にみつめているような写真が多い
それは、温かいまなざしといえようか

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宮本が書いた膨大な書籍の山の一部が展示されている
彼が遺した著作を順次整理し出版されているが
おそらく100巻はくだらないだろうといわれる

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この特別展はきらびやかさはない
そして美術品のように鑑賞する貴重な展示品はない
古ぼけた書物であり、古い写真であり、手紙やハガキである

それでも、展示が興味深く、面白いから
熱心に見ている人が多い

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来場者は、全体的に中高年層が多い
懐かしそうな顔をしたり
嬉しそうな顔だったり
不思議そうな顔や
うなずくような顔だったり
みんな、それぞれの世界で宮本を見ている
そして心で会話しているようにもみえる

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とにかく、宮本は全国歩き回り
撮った写真が10万枚とか

府中市関係でも1000枚程あるらしい

宮本は昭和35年にオリンパスペンを買ってから
あらゆるものをメモ代わりにとり
ネガを残したのである

ちょうど高度成長で日本がどんどん変わり
生活も古いものが切り捨てられていく頃だった

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宮本が記録したり書き残した原稿も展示されていた
とにかく、筆まめというのか
小さな字で、しかもていねいな筆遣いで
読みやすい

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私が嬉しかったのは、
交流のあった教え子や後輩との書簡集だ

あるハガキには

私はファブルの昆虫記をよんでとても感激したものですが
我々が本当に人々のために啓発するような仕事をすることの出来るようになるには
あたたかい心と
こまやかな観察と
忍耐づよい努力が必要です
そして生涯 開拓者の気持ちで生きることです
どうぞ そうした人であって下さい

と書いてあった
後輩に対する温かいアドバイスがよく伝わってくる

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府中市民は宮本常一をどれだけ知っているのだろうか
「旅する巨人」といわれるほどの人が府中市に住んでいたなんて驚きではないか
誇りにすべきではないでしょうか

特別展でのあいさつ文に
「(郷土の森)博物館では、この節目の年に催しを通じて
生涯と業績を振り返り
地域のアイディンティティ再生に向けた情熱を
宮本と共有する機会にできればと…」
企画しましたということである

いまどこでも地域が疲弊している、無くしてしまった郷土愛、
それがひいては生きる力を消失してしまっている
そういうなかで宮本をどう共有するか

つまり、宮本が遺した遺産をどう活用していくかが
大切だ、ということだろう

私は、昨年、周防大島へ行き宮本の生き方が少し分かったような気がした

そして今回こうして東へスタコラ出かけて参りましたが
その大きさには面食らってしまいます

つまりは
私は「宮本常一」について何も知らなかったと
いうことがよく分かりました

民俗学ってなんだろう

人や社会の進歩・発展ってどういうこと?
豊かな生活って、幸せな人生とは?

そんなことを帰りのバスの中で考えてしまいました

でも、
とてもていねいな心のこもった特別展で
ノコノコと西美濃から出かけたかいがありました

2006年8月30日 (水)

周防大島の旅(10)

 私の中の宮本常一

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久賀の町は、すごい雨が降り続いている。
天気が良ければ穏やかな瀬戸内の海が見られたであろう。
台風の動きは依然はっきりしない。
いよいよ戻らねばならない。
まだまだ行きたい所はあるが、またの来訪までとっておこう。

国道からはずれ、旧道筋にある小さな商店街をゆっくり走らせる。
名菓「みかん最中」を製造する和菓子屋がないか。
しかし、土砂降りのなかでは見つけるのも困難だ。

ところで、みかんは宮本にとっても縁が深いのだ。

「父・善十郎が村で始めてみかんを植えた。
私はその後それを奨励したため、ほとんどの田がみかん畑にかわった。
しかし、生産が拡がるとみかんが値崩れをし、農家は食べていけなくなった。
私は大変困った。
そんな中でも、私(常一)の息子はのちに農家の跡を継いでくれた。
そしてこれまでの温習みかんの枝を切り、
毎年すこしづつハッサクなどに品種を転換した。
いろいろと一生懸命に努力している。
しかし、これを指導してくれる人がいない。
これは、今どこでも問題なんです。
地方が豊かになるには補助金を打てばいいというものではないのです。
地元の自主性と豊かな知識を持った指導者、それを資金援助するシステムが必要です」

昭和54年の中央省庁の講演会で宮本はこのような趣旨の話をしている。(炉辺夜話)
現在ははたしてどうなっているのかは分からない。

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大島大橋のたもとの店で「みかん最中」をやっと手に入れた。
雨はすこし小降りになっている。

大橋を渡り周防大島に別れを告げた。

宮本は、73年の生涯に合計16万キロ歩き続けたという。
日本列島に足跡を赤インクでたどると日本列島は真っ赤になる(渋沢敬三氏)といわれた。

ということは、西美濃へも来ているはずだ。
確か、揖斐の奥の八草峠から滋賀県の木本へ抜けた話をどこかで見たが思い出せなかった。

後日、調べると宮本常一の研究家、ノンフィクションライター佐野真一の書「旅する巨人」でこう書いてあった。

「・・・さて私11日夜9時40分の汽車にて東京をたち、12日朝6時10分大垣着、そこより支線を揖斐まで乗って、揖斐からバスにて廣瀬に行きました。バスは1日に2回かよっており、八里の道中を歩かなくてすんだのは仕合わせでした。(中略)

・・・峠の1里ほど手前から雨になり、きっと晴れるだろうと思って峠の途中の炭小屋で雨を避け、苫があったからそれを敷いて2時間ほど寝ました。
峠近くから土砂降りになり、峠の上までは草が刈りあけてあってよかったのでございましたが、両側は全く雑草の繁ったまま、それが背丈ほどにのびてゐ、所々は雪害のために道が崩れてしまって居り、実に大変な道なのでございます。
その道を雨の中を行くので、全くずぶぬれになり、その上ころんだり滑ったりと散々、引きかへすのも馬鹿臭く、いささか無理をして近江に下りました。(中略)

・・・『無理をするな』とのお言葉でございましたが、別に無理をしようとは思わずして、無理になってしまひました。」

これは、昭和16年8月、宮本が旅先から渋沢敬三に宛てて送った手紙の一部である。

揖斐川から坂内村に入り八草峠あたりを超え木本町に抜けたのだ。
今では、八草峠もトンネルが開通し車で楽に峠越えができるようになった。

戦前でなくても、ついこの前までは大変な難所であった。
宮本という人の凄さはこんなところにも出ているのだ。

宮本がこの西美濃に来て、どのようなことを聞き、なにを残していったのだろうか。
まだ宮本の残した調査・研究の成果が手付かずの状態なのが相当あるという。

とくに宮本が写した写真はふるさとの貴重な財産である。
私にとって、今回の周防大島の旅は、宮本常一の魅力を肌で感じとるに充分だった。
台風の襲来というアクシデントもまた、今回の旅をさらに印象的にさせるものであった。

もう一度、行ってみたいし、今度はぜひともリュック姿で歩いてみたいものである。

(完)

2006年8月29日 (火)

周防大島の旅(9)

久賀歴史民俗資料館 

雨が降り続く中、ハワイ移民資料館を出て屋代という地区を走る。
古い民家や商店などがたち並んだ街道で、天気がよければ歩きたくなる街だ。
しかし人がいない。

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周防大島でもこの地区は比較的発展しているように見える。
深くえぐられた湾には養魚場が造られ少しは活気がみられる。
町役場ではいま「地産地消」運動を起こしている。新鮮で安全な地元産の野菜や鮮魚をできるだけ地元で消費するというものだ。
今や全国的に大型スーパーがこうした地域の経済を破壊する元凶になっている。
便利な生活は確かに魅力だが、このままでは安全を脅かされることになる。
 横殴りの強い雨がフロントにたたきつける。時間はお昼を過ぎている。
食堂やレストランは見当たらない。
国道に戻り昨日の道を再び走る。
西三蒲というところにコンビにがあった。「7イレブン」である。
おにぎりを買って車で軽い食事をとる。

再び車をスタートさせ、とにかく久賀町まで行ってみることにした。

宮本は6歳の頃、祖父に三蒲の日限地蔵に連れられていったことがある。
家のある西方から16キロもあるところを歩いたのである。
途中、久賀を通ったがこんな大きな町を見たのは初めてだった。
菓子もみやげも買ってもらえなったが、弁当や水を飲んだことは覚えている。
長い道を一人の幼児をたのしませながら歩かせた祖父は素晴らしい人だった。

その久賀には歴史民俗資料館がある。
雨にずぶぬれになりながら資料館に行くと、戸が閉まっている。
ブザーを押すとどこからか若い職員がやってきた。
こんな台風のなか来る人もいるんだ、というような顔をされた。
まあ、そうだろう。
入館料400円を払う。
いきなり民具がずらりと並び圧倒される。
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宮本が10歳くらいのとき、父・善十郎に連れられ久賀へ大相撲を見に行ったことがある。
久賀には伊藤という旧家があり、造り酒屋であった。この家の主人が相撲興行をした。
ひいきの横綱が常陸山で酒も常陸山だったという。
上の写真にも相撲取りの手形が展示されていたりして、かつて久賀が発展していたのがよく分かる。

ところで、この資料館は、宮本の指導を受けながら久賀町が町民に呼びかけ収集し整備保存展示したものである。
とくに優れているのは石工、鍛冶屋、傘、提灯屋、醤油屋、瓦屋など9職種の用具類2700点あまりが国の重要有形民俗文化財に指定されていることだ。
別棟の用具収蔵庫にある、背丈をはるかに越す、醤油屋の六尺桶が十数個も並んでいるのは圧巻だ。
これらをひとつひとつ見ていると、人の道具に対する改良、創意工夫がどうしてこれほど湧き上がってくるのか不思議でならない。
職人という庶民が成した技術・技能を営々と引き継がれて、こうした素晴らしい道具が生まれたのだろう。

まさしく、パンフにうたうように「町衆文化の薫る郷」であり、『明日へ造り育てる生活の知恵袋』でもある。
これこそ宮本常一が故郷の人々に伝えたかったことではないか。
(以下 次号)

2006年8月27日 (日)

周防大島の旅(8)

日本ハワイ移民資料館

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第1日目の旅を何とか無事終えて広島のホテルに戻ったのは7時を過ぎていた。
駅前のホテルから中心部へ食事に出かけた。
広島市内には路面電車が走っている。
紙屋町で下車し、名物の広島焼きというお好み焼き屋に入った。
ビルの中にお好み焼きの屋台が並んでいるようなものだ。
そばが入ったお好み焼きはオタフクソースのたれがたっぷり。
ビールを飲んでお好みを食べるが、少食の私には食べきれない。
さらにドライブの疲れとで一気に睡魔が襲う。

ホテルに戻り、何とか風呂に入りバタンキューだ。

あくる朝、目が覚めると同時にNHKニュースを見る。
台風は昨日から動きが鈍くまだ九州にいるという。
レンタカーはすでに予約してある。
いまさら、別のところへいく気も起きない。
ともかく、行けるところまで行って判断することにした。

山陽自動車道を南下する。天候のせいか交通量は少なめだ。
トンネルを抜けると突風が時々吹き付ける。

玖珂ICを下車して国道437号を走る。
大島方向の空は黒い雨雲で覆われている。
大畠に着き、大島大橋を渡る。
信号を右折し海岸線に沿って進むとやや開けた平地に出る。
平成16年10月1日、大島にある4つの町、すなわち久賀町、大島町、橘町、東和町が合併し新たに周防大島町として発足した。
ここはその旧・大島町であたる。

雨がかなり激しく吹きつけてくる。
めざすは「日本ハワイ移民資料館」である。
なぜここにそのような資料館があるのか分からなかった。
私のイメージする移民はハワイでなく南米である。

小さな案内標識を頼りに進むと田畑が広がる農村に入り迷いながらやっとのことで着いた村の中に館があった。
フロントガラスにバシャバシャと激しい雨が当たりやっとのことで建物に入った。

資料館といっても木造の和風民家である。
玄関に入るとアロハシャツのふくよかな初老の男性が迎えてくれた。
先客が一組あり、近くに住む親子連れがノートを見ていた。

入館料400円を払うとまずこの資料館のことを少し紹介してくれた。

この建物の持ち主はハワイ移民ではなく、アメリカ本土で成功し財を成した人が帰国して建てたものらしい。
ハワイ移民は明治時代から始まっていた。1881年(明治14年)にハワイ国王が最初の
元首として来日、移民の要請があった。これを受けて政府が正式に募集をかけた。
このとき予定の600人を超える28000人以上の応募があった。
この第1回「官民移民」に何と全体の約3分の1を山口県大島郡出身者が占めていたのである。

そして明治27年の第26回まで全国で約29000人、そのうち山口県10400人、大島郡だけで3900人もの人がハワイに渡った。
こうして大島郡は「移民の島」と呼ばれるようになった。ハワイではサトウキビ畑の過酷な労働が待っていた。
しかし、勇気とたくましさにより新しい社会を築いていったのだ。
大島では貧しくて生活できず、船乗りや大工など出稼ぎや移民といった手段で新天地へ出て行ったのである。
その中で多くは挫折してしまうが努力して成功した人もいたであろう。
この資料館に展示されている大型行李、スプーン、鍋、釜の類も当時の暮しもよく分かる。
宮本の父、善十郎も明治27年にフィジー島へ渡ったが失敗して命からがら帰国している。そうした失敗した経験が多くのことを学ぶことにつながった。
人間だれしも同じ時間があるが、それをどう使うかで人の一生が決まる。それを自分にとって最も価値のあるようにつかう事が大切だと教えるのである。

いまハワイは「常夏の島」として気軽な海外旅行として多くの日本人が出かけているがこの事実を知るものは少ないのではないか。

ハワイ州の全人口は約115万人。そのうちの約22%が日系アメリカ人であるとのこと。
移民のことを知らない三世、四世の代になり日本語も話せない人も増えているとか。

強い雨がガラス窓をたたく。
移民者が鍬を持ち、パナマ帽をかむって堂々とした態度で並ぶ記念写真をみていると
生きることに対する精一杯の闘志と気概が伝わってくる。
(以下 次号)

周防大島の旅(7)

沖家室島のこと

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沖家室(カムロ)島は今年「開島400年」を迎えた。
中国新聞の1月4日の記事を抜粋する。

「周囲4キロ、面積0.95平方キロ。周防大島町の東南端に浮かぶ沖家室島は今年開島400年を迎えた。地元に残る記録では戦国時代まで伊予の水軍で知られた河野氏の家臣が1606年海を渡り定住。以来、海上交通の要衝となり、江戸時代、瀬戸内屈指の漁村として栄えた。明治期に人口は3000人を超え、ハワイや台湾、韓国などに移民を送り込んだ。
戦後は高度経済成長のあおりを受け、島の過疎化が進む。現在は131世帯、189人が暮らし、高齢化率は73%を超す。」


 文化交流センターに展示してある一本釣り漁船は家室船と呼ばれ瀬戸内はもとより台湾、ハワイにまで出漁していたものだし家室針と呼ばれる釣り針も播州などから技術者が来て専門の釣り針製造の産地ともなった。
島は海によって閉ざされているのではなく、どこにでも繋がっており行くことができる進取性を持っていた。

この島にも宮本が大きく関わっている。昭和58年に全長590メートル沖家室大橋が完成した。30年以上にわたる島民の運動に加え、離島振興に国や県を動かし実現したのだ。
しかし、完成の2年前に宮本は亡くなった。

開通当時の人口は約450人というから過疎化はとまらなかった。
だが橋がなかったら無人島になっていたかも、と島の人は言う。

島の3分の1、約60人が年寄り。しかしお互いに食事など助け合って生活している。
都会に住む息子らが説得しても島を離れようとはしない。

毎年、お盆になると約千人の帰省があり島が大いに賑わう。
に沈む島」と呼ばれる所以である。

日本人を考えてみる。
故郷とは一体なんだろう。
毎年、盆正月になると都会から多くの帰省客がふるさとをめざす。
新幹線も高速道路も大渋滞だ。
それでも帰りたいという気持ちは何だろう。
押さえがたい望郷の念。
親や幼友達に会えるだけの理由だろうか。
田舎の不自由さや窮屈な人間関係そして何より働けないという経済的な理由で飛び出していったのではないのか。

離島や山村がますます老齢化し、村そのものが存続できない現実もある。
消滅する村が増える。
地方が危機だ。東京ばかりが増殖していくシステム。
このままでは、盆正月に帰るふるさともなくなる。

今回の旅はこの小さな島にも行ってみたいと思っていたが台風の襲来で断念し
勇気ある撤退となった。
(以下 次号)

2006年8月26日 (土)

周防大島の旅(6)

戦艦陸奥記念館

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周防大島文化センターから東へ国道437号線が走る。
ちょうど金魚の形の尻尾にあたる島の東端に伊保田という町がある。
この伊保田港から四国・松山を結ぶ航路が開かれている。
また、センター近くの平野というところから右折して南下し県道60号線を進むと沖家室島だ。
島の広さを確かめたいということもあってとりあえず海岸線を伊保田に向かう。
民家がまばらにあるが人の姿がほとんど見えない。

伊保田に着く少し手前に突き出た岬に「戦艦陸奥記念館」がある。

この岬から見える桂島沖で戦艦陸奥がなぞの爆発を起こし2分後に沈没した。
昭和18年6月8日のことである。
殉職1121名。

一時期、戦艦陸奥は日本海軍の世界に誇る戦艦であった。
しかし、やがて航空機時代になり役目も少なくなったときの爆沈だった。
事故説、故意説などあったが真相はうやむや。
昭和45年から引き揚げられこの記念館に展示保存されるようになった。

入館料420円を払い入る。
夏休みでも人がまばらだ。
台風の影響もあるが、ここまでは遠すぎる。
軍服、日本刀、愛読書、ノート、ペンなどが陳列されている。
遺品の数々は当時の状況をよく表わしているが、理解できないかもしれない。
戦争はいかに多くの犠牲者と親族の嘆き哀しみを出すかが分かる。
人の扱いは将棋の駒以下。
今、例えば幼児殺人事件が起きるとあれこれと死をめぐってマスコミの報道が過熱する。
たった一人の死でも命の重さについて繰り返す。

戦争はどうか。
死が日常化してした。
戦艦陸奥が沈没した当時どう報道されたか。
たぶん軍事機密でかなり抑制された発表だったろうと推測される。

ところで、宮本は昭和2年、短期現役兵として約5ヶ月間大阪の第8連隊に入営している。
生家に日記が残っているらしい。
彼は病弱で、体格も恵まれていなかった。
軍事教練も苦手で「手榴弾の投げかた」も下手くそだったと書いている。

宮本にとっても戦争には何よりも手痛い仕打ちを受けている。
敗北が近くなった頃、旅先では「スパイ、スパイ」と子供たちから石を投げられた。
旅そのものがもはや困難となる。
そして、昭和20年の敗戦まで歩きに歩いて得た貴重な旅の取材ノートは7月9日の堺市の大空襲によってすべて灰燼に帰してしまった。
戦争に対し宮本はどう感じていたか。
国家というものはあまりにも大きい。

経験者の死とともに薄れていく戦争の記憶。
周防大島の旅が宮本のふるさとに触れることだったが、この大島でも生活の中に哀しい戦争の爪跡が残っており、けっして避けて通れないということを思い知ったのである。
(以下 次号)


周防大島の旅(5)

写真を撮る

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文化交流センターの受付で若い女性職員に尋ねた。
「宮本さんの生家はどのあたりですか?」
やや、沈黙があって
「ご子孫が住んでおられますのでお教えできません。スミマセン」
「あそうですか。住んでおられればご迷惑ですね。わかりました」

確かに私が間違っていた。
聞くべきではなかった。

ただ宮本がなつかしく語るふるさとの風景、神社や道や山がどのようなものだったのか一度見ておきたかった。そして祖父や父、母、宮本自身の生き方を育んだ郷土を少しでも歩いてみたいと思ったのだ。

東和町西方に生まれた常一は16歳で大阪に出るまでこの地に住み、祖父や父と百姓をしたり魚を採ったりの生活をした。
祖父・市五郎に10歳になる頃まで育てられた。夜になると祖父から童謡や民謡、昔話を数限りなく聞いた。
そのことがいつまでも常一の心に深く関わりを持った。

また、父・善十郎は貧乏のどん底にあったため、フィジーへ出稼ぎに行ったり、田畑に何でも植えつけたりする一方突然旅に出かけたりした。小学校もろくにいけなかった父だが多くの人から聞いた知識の蓄積で不思議なほど物知りだった。
物の見方などじつに多くのことを教えてもらったのだった。

ある冬、父に連れられて家のすぐ南にある白木山へ薪をとりにいった。
頂上から見える中国、四国の山々、海にうかぶ島々の一つ一つについて話してくれる。
どうしてこれだけの知識をどこで得たのだろうかと思うほどよく知っていた。
そして常一の夢を大いにかきたててくれたのである。

父から話された10カ条の話のなかに

(2)村でも町でも新しく訪ねていったところはかならず高いところへ上がってみよ。
  そして、方向を知り、目立つものを見よ。
  峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず
  見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。
  そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいってみることだ。
  高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

 この教えは現在でも充分通用する。カーナビなどより余程確かなものだ。私自身も例えば城下町などへ行けば天守に登ったり、高いビルから街のおよその配置を頭に入れたりする。こうすればそれほど間違いはおきない。

  センターの女子職員に白木山への道を尋ねたところ、道が崩れて通行できないとの返事だった。

 台風10号接近で何となくざわざわしていることもあって当初の予定がだんだん萎んでくる。
今回はやはり無理か。
国道から町のようすをカメラに納めるがいまひとつしっくりこない。
なぜか。
この国道より中に地元の旧道があるのだ。そして民家はそこに向いて建っている。
狭い道に入ってみた。
誰もいないはずなのに家の中から視線を感じる。
見られているかも、と思うとシャッターは切れなかった。
(以下、次号)  

周防大島の旅(4)

周防大島文化交流センター(2)

展示資料室には、宮本の著作などの書籍が閲覧できるコーナーもある。
写真にしろノート、メモにしろまだ未整理のものが膨大にあり宮本の全仕事が
世に公表されるにはまだ時間がかかりそうだ。

ところで、この館が「文化交流センター」であって、なぜ「宮本常一記念館」ではないのか。
それが私には始め不可解だった。

彼の遺品ともいえるモノはないのか。
あった。
Photo_38

ガラスケースの中にわずかに並べられている彼の愛用した品々。
キャノン、アサヒ製のカメラ、そろばん、虫眼鏡、髭剃り、水筒、めがね、お守りなど。
飛鳥資料館の会員証、万葉集、風土記などの文庫本。

この程度しか並んでいないのだ。
宮本はともかく「旅の人」だった。
同じ民俗学者でも柳田国男のように書斎にこもる研究者ではなかった。
リュックを背負いこうもり傘を入れて、ズック靴をはいて歩き回った。
富山の薬売りと間違えられることもあった。
取材に使用したこれらの道具も単に消耗品でしかない。
ものに特別こだわったり愛着はなかったようだ。

とくに昭和15,16年には年間200日以上、実に3分の2は旅に出ていた。
全国を歩き回り、話を聞き取り、メモし、写真をとるという調査が彼の仕事だった。
旅先の村や島が彼のフィールドだった。
話し込んでは、その人の家に泊めてもらい話は深夜まで及んだという。
話す相手も決して嫌がらずむしろ大変喜んで話したというほど聞き上手だった。
今度来るのを楽しみに待っていたと言うのだ。
宮本の人柄がよく分かる。
こうして泊めてもらった民家は千軒を超えるともいわれる。

彼は、画家でも小説家でもない。
作品は撮影した写真であり聞き取りノートであった。

それこそが貴重な遺産であり、今後生かされていく資料である。
おそらく彼は顕彰されることは好まなかっただろう。
地元やそれぞれの地方の人々との交流の場になることこそ彼の意思でもあったと思う。
そういう意味で「文化交流センター」が相応しい。

没後20年を記念して企画され、5億円余の事業費をかけて、ようやく平成16年5月18日開館した。

じっくり見学したいと思ったが残念ながら時間がない。
いずれまた訪れる機会もあるだろう。
受付で「宮本常一という世界」佐田尾信著 みずのわ出版(3000円)を購入して辞去した。
(以下 次号)

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