2009年4月25日 (土)

伊久良河宮跡を訪ねて

揖斐川とその支流・根尾川が合流するあたりの東にある史跡

「伊久良河宮跡」に行ってみた

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本巣郡巣南町(現・瑞穂市)居倉という地区は
あの富有柿の本場でもある
あたり一面は柿畑でおおわれ
新芽がつき始めて青々とした風景が広がる
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リオワールドSCから南へ細い道を少し走ると
居倉という集落がある

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村中に入る道路の西には碑が建っている
「富有柿発祥の地」とある
その原木がある
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そのちょうど東側にあるのが
「伊久良河宮跡」である
石標には「天神神社」とある

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石の鳥居をくぐると細くて長い参道が続く
石橋を渡る右には小さな石柱があり
「史蹟 伊久良河宮跡」と読める
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さらに進むと神社には珍しい木の門がある
長い玉砂利の参道を歩くと拝殿がある
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拝殿は質素でごく普通の氏神さま程度の造りである
拝殿前で参拝をしてから拝殿の右から北に入る

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小ぶりながらなかなか立派な本殿が建ち、
後ろには大きなクスノキが守護するように伸びている

そのクスノキの右側にある不思議な石と祠
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これこそ、その伊久良河宮の史蹟である
奇妙な形をした石が「御船代石(みふねしろいし)」
左の小さな祠が倭姫命をお祭したものであるとか

まあ、私達は「古事記」や「日本書記」なんていうのは
名前ぐらいは知っていてもじっくり読んだことはない

そもそも今の人は
それは日本神話としての昔の人が作り上げた
フィクションじゃないかな、って思っている
たとえそうじゃないといっても、どこまでが史実であったのか
もやもやしたものが残る

で、肝心の「伊久良河宮」のことである

伊勢神宮の内宮にお祭してある天照大神は、最初から
三重県の伊勢の五十鈴川にあったわけではない

垂仁天皇の御代に大和の笠縫邑にお祭してあったものを
別の地に鎮め坐させる処を求めて諸国を巡幸した

倭姫命(やまとひめのみこと)が御杖代となって、大和から、
近江を経て、美濃を巡幸しやがて伊勢国に至った

そのときの美濃の伊久良河宮こそ、この居倉の地であった
のではないかというものである

史蹟の概略の説明版があるが、これだけでは分かりにくい

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ちなみに、倭姫命は、ヤマトタケルの叔母にあたり、
東国に遠征に先立ち、伊勢に立ち寄り
草薙の剣をもらっている

これは今、熱田神宮にあり三種の神器のひとつである




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そんなロマンを秘めた神社がこんな身近にあることはほとんど知る人は少ない
神話と歴史のロマンを秘めた神社の横を車が通り過ぎていく

ひっそりとした史蹟ではあるが一度行ってみるのもいいかも!










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2007年9月 7日 (金)

お月見の寺・行基寺

台風一過といっても爽やかさはなく、ムシムシして身をもてあますね

それでも、鈴虫が鳴いたり、夜になれば外は少しひんやりして
秋が近づいてくるようですね

秋の夜空を見るのも心落ち着きいいものです

名月鑑賞もまたこれからの楽しみです

芭蕉の句に
そのままに 月もたのまし 伊吹山」というのがあります

伊吹山と名月との風景を楽しみに大垣を訪れたが
到着が遅れてしまい名月が見られなかった

しかし、月がなくても伊吹山そのものが素晴らしい
と、まあこういう意味らしい

そんなわけで
お月見の寺とも言われる「行基寺」を訪ねた

大垣市と桑名市を結ぶ国道258号線
通称(ニーゴーパー)という

名神高速と東名阪道路をつなぐ重要路線で
大型トラックがスピードを上げて走るので怖い道路

木曽三川のひとつ・揖斐川と
養老山にはさまれた丘陵地帯を南へ走らせ
「道の駅」とJA市場を過ぎると
大きな看板が目につく

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山側へ入るので対向車と後続車に追突されないように
いきなり目もくらむ急坂で、ぼこぼこの道だ

そりゃそうだ
この急坂はお寺用につくられたらしく
馬力の弱い車なんかだとチョット無理かも!

途中に駐車するところはあるが、そこから歩くのも大変そうだ

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車を止めて歩くと目の前に現れた長い石垣と黒い塀
まるで城壁のようでもある

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石垣の横にはこんな奇妙な木が一本ある
不気味な印象だ

なんだろう、これは?
夏の終わりとはいえ、午後4時過ぎている
物音ひとつしない

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山門だ
ここが「臥龍山 行基寺」
名前のとおり、行基菩薩が開山したとかいわれる

その真偽はあまり詮索しなくてもよい、と思う
弘法さんも行基さんもいろんなところで耳にするし
まあ伝説といっては怒られるかもしれないけどね

しかし時代の変遷で一時期かなり荒廃していたときもあったが
興隆のキッカケは
江戸時代に尾張徳川家の支藩として高洲藩など3分家が生まれ
その高須藩主の菩提寺として、この行基寺が幕末まで続いたことによる

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本堂に続く石畳の左手にある階段を上がると高須家の墓所がある
しかし、道がくずれ危険なため立ち入り禁止となっていた

静かな境内に入り、来訪者用のボタンを押すと
住職?らしからぬ中年男性が登場

「資料館、だったか宝物館は確かあったようですが
見れますか?」

「いまはありません」といささかぶっきらぼうな答えが返ってきた

「庭園はみれますか?」
「どうぞ」

庭園の入園料を払う

本堂に上がり、右手から入ると大きな書院がある
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中庭は自然の岩を借景にした枯山水庭園
小さな滝が落ちている
静かだ
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薄暗い廊下を渡る
歩くとギシギシと音がする
時代の経過を感じるなあ

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お殿様が座ったであろう座敷
刀がそのまま置いてありビクッとする
なんか怖そう
このムードは少し不気味だね

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襖には徳川家の三つ葉葵の紋が贅沢に使われている
この紋所が目に見えぬか!下がりおろう!
なんて言いたくなるね

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どうだい!この景色は!
まさに絶景だね!
眼下に木曽三川が見えるよ

南東を見ると視界をさえぎるものが何一つない
遠く名古屋の高層ツイン駅ビルが見える

もちろん、お月見もバッチリだろうな


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それに庭園も素晴らしい
広々とした中での開放感というのか
お抹茶のんだりお酒を飲んで月を愛でる
いいだろうなあ!

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ところで、
美濃高須藩は尾張徳川家の藩主の後継者が絶えたとき
相続人として養子を出すという、まさにお家断絶をさせないため重大な
任務を負わされていたのです

したがって3万石とはいえ江戸城における格式は大変高かった
しかし、結局尾張藩からは一人も将軍を出していない

特に高須藩が有名になったのは幕末のこと
尾張の徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬達は
この高須藩の兄弟でそれぞれ養子に出されていたのであった

会津藩や桑名藩は不穏な京都での警護をあえて引き受けたのだ
しかし、
その後の薩長主体の明治政府が彼らをどういう扱いをしたのかは
歴史が語っている

そういう重い歴史と関わりを持つお寺でもあるのです

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眼下にみえる濃尾平野が日に映えて美しい

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帰りのまたまた奇妙で不気味な枯れ木を見つけてしまった
ナンジャ、これ!
変なのがあるよ この山には!

また秋の名月が見られる頃、来よう

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2007年3月 3日 (土)

西美濃の名水(5)

教如上人『御清水潤いの泉』

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揖斐川の支流・粕川に沿って車を走らせる。
北に小島山、南に池田山。


この辺りは旧・春日村だ。
合併して揖斐川町になった。

今年は暖冬で、この辺り、雪がない。

曲がりくねった狭い道を上っていく。

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山沿いに車が止まっている。
どうやらこれらしい。

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教如上人「御清水 潤いの泉」と書いてある。

教如上人といえば、東本願寺の創設者だ。
この山奥とどういう関係があるのか。

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冷たい清水が流れ出ている。
岩の中から湧き出しているのだ。

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御清水・潤いの泉」の謂れが書いてある。

さらに詳しく調べてみると教如上人と西美濃とは深い関係にあった。

織田信長と本願寺との闘いに破れ、大阪本願寺が焼失。
その後教如上人は美濃、飛騨などを転々とした。

秀吉が天下をとり、京都・7条堀川に広大な土地を寄進され
第11代顕如上人、その後、教如上人が跡をついだ。

そして、今度は秀吉から突然の隠居命令がでる。
秀吉が死ぬと政局がさらに混乱。

教如上人は家康に近づく。
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そして、
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのすこし前、7月
家康のいる関東から京へ帰る途中、美濃に入り
教如上人は三成ら西軍方の襲撃をうける。

美濃の安八町の光顕寺に匿われかろうじて生き延びた。
さらに信徒に守られ安八郡平野庄草道島(現大垣市)・西園寺へ

ここからは揖斐春日谷の強者に伴われ池田町の正光寺、などを経て
春日村へ逃れたのであった。

9月、関ヶ原で三成ら西軍が破れたため、国見峠を越え
近江長浜から京にたどり着いたのである。

1602年、家康は京都・6条烏丸に広大な土地を寄進。
こうして東本願寺が成立したのである。

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この御清水は、そのときに休息され口にされたもので
今でも流れ続けている。

プラボトルに詰め込んでいる女性に聞いた

「お茶に使われるんですか?」

「いいえ、そのまま飲むんです。
私のお友達がこの水を飲んでから石が消えちゃったというんです。
それ聞いて、私も貰いに来てます」

そして、何本も詰めておられた。

多分、こうしたクチコミで知られていくのだろう。

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地元・岐阜や尾張小牧、名古屋ナンバー。
次から次へと車がやってきて、黙々と作業を終えて帰っていく。

信ずることは確かに強い、そう思った。

やはり、これも「名水」だろう。

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2007年2月25日 (日)

西美濃の名水(4)

養老の「菊水泉」

揖斐・関ヶ原・養老国定公園の中心的観光地のひとつが
養老の滝である。

今回は、ここにある名水「菊水泉」を紹介しましょう。

養老の滝の歴史は古く、
これまで多くの文人墨客が訪れている。

が、シーズンオフの今は特に人が少なく、
立ち並ぶ店も閉めていて、寂しい風景だ。


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高さ30メートルの滝から音を立てて落ちている。
南斜面が崩れ、えぐられて、木々がなくなってしまった。
かつての滝の持つ神秘的な風情が薄れている。


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滝に向かう坂道の途中にあるのが養老神社。
この急階段を登る。

この神社を訪れる人は少なく静かだ。


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この神社境内に名水「菊水泉」がある。
山からじわじわと清水が湧き出ている。

ほんとうに、しみ出るという表現がピッタリである。

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神社の境内のため
この場で直接、手にとって飲めない。
案内板には「菊水霊泉」とある。

奈良時代、源丞内という男が
老父に湧き水をすすめたところ
酒に変わったという
親孝行な話。

時の元正天皇(女帝)は
このことを知り、年号を「養老」と改めたということだ。

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歴史書によれば、
霊亀3年9月、元正天皇は美濃国不破の行宮に赴き、
数日間滞在した。
そのとき多度山の美泉にふれ、
その効能にいたく感心してこれを天の恵みとして
同年11月、「霊亀」を「養老」と改元した。
そして賜物が下賜された。


この水は環境省の名水百選に選ばれた
お墨付きの名水である。

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井戸と違い、水量はそれほどはない。
しかし、山が長い年月をかけて溜め込んだ水だ。
ミネラルが豊富で、美味いはず。

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このときも、
常連と思われる人が何個ものポリタンクに名水を詰めていた。
名古屋ナンバーの車だった。

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土産物屋の店頭には、
こうした名水仕込みの飲み物が並んでいる。
名水、ビール、ラムネなど。

桜の季節には、大勢の花見客が繰り出す。


名水を使ったコーヒーやお茶が美味いという。

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2007年2月18日 (日)

西美濃の名水(3)

八幡神社の湧水
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大垣駅から水門川に沿って5分ほど西に歩く。
八幡神社がある。

ここに、新しい?名水がある。
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まだあまり、知られていないので
加賀野神社ほど人が来ていない。

しかし、さすが日曜日ともなると
ごらんの状況でペットボトルやポリタンクを
持参して汲んでいる。

かつては、市内のいたる所でこんな風景は見られた。

大垣が「水の都」といわれる由縁である。
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自噴水「大垣の湧水」の看板がある。
125m掘削した井戸だ。

コンコンと
清らかな水が溢れ出ている。
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夏の季節ならば
思わず口に含みたくなる。

心も体も、リフレッシュできる風景だ。

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2007年2月10日 (土)

西美濃の名水(2)

加賀野八幡神社の名水

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とにかく、大変な人気です。
しばらく見ているだけでも、4~5組が黙々と
柄杓で水を入れています。
立って順番を待っている人もあります。

透明できれいな水がコンコンと湧いています。

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ペットボトルでは少ないとポリタンクを何個か持参している人。
足元が水で濡れているのに気がつかず
ひたすら作業を続けている人。

後ろに立って指示している人もある。
とにかく混雑している。

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JR東海道線、上り電車で大垣駅を出発すると2~3分で
北側車窓にこの看板が見えます。
南にはソフトピアジャパンのシンボルビルが見えます。

この看板のある道路の正面が加賀野八幡神社。

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神社前の道路は車が一杯。
お目当てはもちろん「名水」


岐阜県の名水にも選ばれて
本にも紹介されて有名になってしまった。
だから名古屋あたりからも「水汲み」ツアーの人もある。

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この名水は、特別な伝説や効能があるわけではない。
もともと大垣は「水の都」「スイト」などと呼ばれ
どこでも少し井戸を掘ればコンコンと良水が湧いてきたものだ。
「自噴井」と呼んでいる。

大垣の名物「水まんじゅう」も、
この水のおかげで
夏の風物詩にもなっている。

いつの時代からか、
工業発展につれ
大量に地下水が汲み上げられ
枯渇してしまった。

それから汲み上げ規制がされ、
努力が実ってやっと水位が上がり回復してきた。
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こうした中でも
この加賀野神社はいつも水が湧き出ていた。
この辺りは農村集落で田んぼが多い。
この水を守ってきたのは地元の人だ。

最近の傾向として自分さえ良ければいい、というか
居直りというか
悲しいものがある。

と、言うのも
水だけ汲んでさっさと車で去っていく人がほとんど。

この神社に手を合わせる人も
まして賽銭をあげる人は皆無だった。

ただで当然、ではなく
感謝の気持ちで
頭を下げるくらいのことはしてもよいのに、
と思う。

テレビの「あるある」のような
まやかし、短絡的ブームにはしてほしくないな。

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2007年2月 9日 (金)

西美濃の名水(1)

名水「二条関白蘇生泉」
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西美濃は地下水が豊富である。
そのため、あちこちに名水が湧き出ている。

揖斐川の支流、粕川が春日の山あいから
池田山と小島山を抜けて平野部に出る瑞岩寺付近。
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古い言い伝えによると
南北朝の頃、北朝方の後光厳天皇が美濃国守護の土岐頼康を
頼り京を逃れ、この小島の里に頓宮を置いた。

しかし、関白前左大臣、二条良基公は病のため、後から旅立った。
夏の盛りで病の身のため、この辺りで疲れきり心もうつろ夢うつつ。

そうすると、若い娘が現れ「この冷水を召し上がれ」と差し出した。
夢から覚めた。
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「この辺りに冷水はないか」ときいた。
岩間から汲み取った清水を口にすると
たちまち元気になったそうである。

「この清水で生き返った」と喜ばれたという。
その後、村人たちはこの泉を「二条関白蘇生泉」と名づけた。

良基公はこの旅の日記を「小島のすさみ」として残している。
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今でも清らかな冷水が流れ出ている。
名水ブームといっても、行列ができるほどではない。

しかし、見ているとペットボトルを何本もかかえた若い夫婦や
老人などが黙々と詰め込んでは車で帰っていった。
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聞いてみると、コーヒーやお茶にするとおいしいという。
700年前からずーと湧きつづける自然の水に
私も少し感動した。



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