2010年11月16日 (火)

白洲正子「神と仏、自然への祈り」展に行く

滋賀県立近代美術館で開催されている
白洲正子の「神と仏、自然への祈り」展に
行きました

生誕100年の特別展です

今年は生誕100年で13回忌にあたる

これを記念して白洲正子が感銘を受けた
仏神像などや旅で出会った文化財など
展示するというものです
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新名神「草津田上IC」下車して5分ほどで到着
滋賀県立近代美術館は、
外観は和風のゆったりした建築で
自然豊かな森の中にある

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裏にある日本庭園も紅葉が美しい
今日は特に冷え込んだので、
その分色彩が濃いように見える
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白洲正子の著作は「かくれ里」や「十一面観音巡礼」
「近江山河抄」など読んだ

日本人の心に宿る神仏習合したところもの、
いわゆる自然崇拝というものを解りやすく
話をする語り部のような人であった

白洲正子の紀行文を読んで近江の田舎を歩くのは
楽しいことだ

西美濃に住んでいると近江は庭続きのようなもので
ごく身近に感じられる

今回の特別展に行きたいと思ったキッカケは
神戸町の日吉神社にある「十一面観音坐像」を
じかに見たいという思いからである

9月29日の中日新聞岐阜県内版の記事によると
約30年ぶりに一般公開されるというのだ

ふだんは収蔵庫に仕舞われており、日吉神社の祭礼でも
公開されたことはない

私も一度も見ていない
国の重要文化財に指定された貴重な文化財であるが
誰も見られないようではね…

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平日の朝というのに大勢の人が来ている
先週の10日にはや1万人に達したという

入口で音声ガイドを借りて入場する

展示は「自然信仰」「かみさま」「西国巡礼」
「近江山河抄」「かくれ里」「十一面観音巡礼」
「明恵」「道」「修験の行者たち」「古面」といった
テーマことに区分されている

なんといってもよくこれだけの神仏像が揃った
ものだと驚かされる

この特別展は白洲正子の孫にあたる白洲信哉氏
の並々ならぬ情熱があったようだ

日吉神社の観音像の場合も、
信哉氏自身の強い要請を受けて
氏子総代で話し合った結果
30年ぶりに一般公開になったものだというのだ

多分、他の神仏像も、いわゆるそれぞれ地域の
神社や寺で手を合わせていた大事な神さま
仏さまなんだろう、と思う

それが白洲正子によって
神仏像の持つ美しさ、深さ、価値が
掘り起こされて、また新たに甦ったのだ

だから「おらが村」の誇りなんだ

おそらく白洲正子を偲ぶ特別展だからこそ
貸し出されたものも多いだろう、と思われる
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神仏像の前には白洲正子の随筆の一部が
あわせて展示され、わかりやすい

法隆寺、興福寺などの有名な仏像と違い
その神仏像のどこに面白さや美しさがあるのか
ちょっとシロウトにはわからない

この文章を読むながら鑑賞すると「ナルホド!」
と実感できる

サテサテ、
あの日吉神社の「十一面観音坐像」のことですが


オゥ、ありましたゾ!

ナント、小さな像だ
手の上に乗る位の大きさだ
約23センチというから、今回の観音像で最小だろうな

でもキリ!としたよいお顔です
右手はとれてしまっているし、木造で色も剥げ落ち
頭の十一面も素朴そのものです

白洲正子は随筆の中でこの観音様は
「ただすぐれているだけではなく、日本の美術品に特有な
うぶな味わいと、ほのぼのとした情感にあふれており、
観音様でありながら、仏教臭がまったくない。…」

「今まで見たどの仏像より日本的で、彫刻も、彩色も、
単純化されている。… … 頭上に十一面は頂いている
ものの、これはあきらかに神像である。そういって悪ければ、
日本の神に仏が合体した、その瞬間の姿をとらえたといえ
ようか」(十一面観音巡礼から)

十一面観音といっても二メートルもあるものから、ちっぽけな
日吉神社のものもあります

でもね、かわいらしくて何とも離れがたくて、
これが
「神に仏が合体した瞬間の姿か…」と
頭に焼き付けるように
観音様をマジマジ見続けていました

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なんだかんだで大変見応えにある特別展でした

この感動は、やっぱホンモノを自分の目で見ないとね!

そのほか、岐阜県関係では千光寺の円空仏が10体ありましたよ

紅葉見物を兼ねて秋の近江路に出かけてみるのもいいですよ!

21日(日)までやってます

2009年3月28日 (土)

[家族同時多発介護」の鈴木輝一郎

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大垣市在住の作家である。
大体、小説など書いている人はごまんといる(?)が
ナントカ新人賞なんてもらうと
どいういわけか地方を引き払い
東京近郊、あるいは湘南あたりへと
お引越しされるというパターンが多い

あの名古屋出身の城山三郎も神奈川県茅ヶ崎に移った
理由は地元では有名人で名士扱いされ何やかやと雑事が多くなり
結局、作家活動に専念できない、とかいうのだったようだ。

けど、鈴木さんは偉い!
大垣で家業を引き継ぎながら作家活動してます

書物の編集・企画・出版は東京一極集中で
地方に引っ込んでは仕事にならないのだ

毎月、定例で東京ー大垣間を何度も往復して、打ち合わせたりしてなかなかの苦労があることも事実だ。

さて、この鈴木輝一郎は
1994年「めんどうみてあげるね」で第47回日本推理作家協会賞を受賞している。
当時、まだ老人介護問題が今ほど深刻でなかったころに託児所ならぬ「宅老所」という施設
での介護についての短編を書いた

一部の人には注目されたが、捨てるほどいるいろんな作家がいる中ではそれほど話題は続かなかった、ようだ(と思う)

で、この「家族同時多発介護」であるが2003年に発行された。

本の腰巻に「親の介護、頑張ってはいけない!
父、祖母、義祖父、息子の同時介護、相次ぐ過労、重なる葬儀‥
凄絶な体験をユーモアに変え、介護の現実を具体的に描く
感動のノンフィクション!」
長たらしく書いてある。

まあ、読んでみるとホント面白い

イヤ、そう言ってはイカンのだろう
事実はもっと深刻そのものでとても笑ってユーモア交えて
語るような内容ではない

でも、これをそのまま真面目くさって、大変だ、苦悩だ、と書いてみても多分誰も読まないし読みたくないだろうな

だって、今や老親介護の問題は他人事でないんだ
私だって、いや私の周囲の人だって真剣に悩んでいるんだから

書店でも図書館でも「介護本コーナー」があるくらいだ
法律相談、医学的解説、介護施設、行政手続、各種の
案内書的な本はあるけど、あまりあてにはならない

それよりこの本を読むとホント哀しくて、泣き笑いしたくなるほど
苦難が襲いかかってくる

それに大垣が舞台だから、習慣、風習など「そうだ、そうだ」って
同感するね

大垣市民病院が登場するし、鈴木の親父が市会議員だったので
そうしたお家の事情も出てきて、家族がそれに巻き込まれ生活している鬱憤がよく出ている

近所に葬式がでれば、しきたりでいろいろお手伝いがある
ホント霊柩車の運転手までやらなきゃならん

つい10年前くらいまで、地区の火葬場で遺体を焼くことまで
やっていたんだ。死ぬことがどうゆうことか体験してきたのだ

東京の人には脅威的、想像の域を超えているだろう
それが地方の現実なんだ。

最近でこそ近代的で立派な斎場ができてきたが、まだ葬儀には
独特の風習が残っているのだ

西濃地方でも、通夜には子供会、老人会が読経をしたりする
お斎(トキ)といって簡単な精進的な食事を作っている

さてさて、話しがそれてしまったが、鈴木家を襲った同時的介護は
波乱含みで進行していく

「一人の赤ん坊を一人の母親が世話するのは不可能ではないが
一人の老親を一人で世話するのは不可能だ。
赤ん坊には過去がなく、老親には過去がある。見ず知らずの老人のオムツは交換できても、自分の老親のオムツを交換するとき、去来するものが必ずある
赤ん坊には明日がある。‥‥老人は沈んでいく太陽だ。」

親に苦労かけ育ててもらった恩義があるんだ。ぼけたと言って簡単には捨てきれない。

田舎に老親を残し、都会に住んでいる人はある日突然、老親の介護の問題に突き当たる
このノンフィクションのように笑えるほど余裕はないと思いますよ

ま、ホント読んでみる価値はありますな

で、鈴木輝一郎はホントは歴史小説を書いてるんですよ

2009年3月13日 (金)

「100回泣くこと」の中村 航

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「100回泣くこと」を読んだ
図書館で借りて読んだ
前にも「リレキショ」という本を読んだ

いずれも作者は中村 航(こう)
岐阜県大垣市出身の作家である
1969年生まれだから今40歳になる

「リレキショ」では文藝賞を受賞している
知ってる人はもちろん多いだろうが
私はこの2冊を読んだだけである

詳しいことはしらない
「リレキショ」を読んだとき
何だかとてもナイーブな物語?で
ガソリンスタンドで知り合った彼女

とても静かで大きな話に発展するわけでなく
淡々とした少年の日常的内面を描いていたように思った

今回の「100回泣くこと」も
そういう意味では描写が実に淡々としている
知り合った女の子とアパートで結婚の練習をしてみる

やがて彼女が癌に侵されて闘病生活
藤井君という僕は何にも助けになってやれない
そして彼女は死ぬ

その間の二人の会話も行動も何だか生活実感から程遠く
ままごと遊びのようでもあった

生きていることの重さがなく
かといってとてもやさしく繊細な心を持ち
壊れそうな二人の関係は
希薄な人間関係であるからこそ
気をつかいながら生きていくという
今日の社会状況を反映しているようでもある

‥‥

このなかで少しばかり、西美濃の原風景が登場する

ブックと名づけた捨て犬とは図書館の駐輪場の脇で出会った
「図書館に隣接した文化会館の駐車場を、
僕とブックは斜めに突っ切って進んだ」

ここは多分スイトピアセンターと大垣図書館だろう


「夕暮れ前になると、外に出て単車のエンジンをかけた。
 ‥‥
僕らは県道を東進した。‥
揖斐川にさしかかる手前で、県道から左にそれる。堤防の上を直進し、河川敷へと降りていく。‥‥いつもの決まった石に腰をおろすとブックが胸から這い出してくる。
河原にはいつでも強い風が吹いていた。ヘルメットを脱ぐと遠く鉄橋を渡る電車の音が聞こえた。空はあかね色から次第に色を落としていく‥‥」
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           (揖斐川の河川敷)

私には多分、こんな風景かな、という感じになる

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       (夕焼けに沈む大垣の町)

私としては
西美濃に生活の場を置き、暮らしているという
極めてローカルな視点からこの物語をみているわけだ

東京の人、あるいは大阪の人が読めば
全く違った立場で見ていることになるはずだ

大垣の田舎を離れ、都会に出て独り暮らしをし、
偶然に知り合った彼女との奇妙な共同生活

彼女は死んだ
そのあと「結局、僕は何とも向き合おうともせず、こうやって
酒を飲むだけだった。百日の間、毎晩同じように酩酊するまで飲み、涙を流すだけだった」

それから3年後に、犬のブックは死んだ
バイクで大垣に戻り、ブックをバイクに乗せて揖斐川の河川敷に
埋めた

この小説はよく読まれているようだ
多分に若い世代だろう、って思う

それにしても、何か躍動感がない
静かにそおっと生きているって感じられて仕方がない

はっきり言って血の気がないっていうのかな
でも、こういうのが今の人たちに共感を呼ぶのかもしれないな

2007年7月11日 (水)

司馬遼太郎と大垣

水底(みなそこ)の町

司馬遼太郎は大垣の印象を「水底の町」と言っている
司馬が「大垣ゆき」という題で短いエッセイを書いており、
その一部には
「‥‥‥
 大垣についたのは、夜だった。
ビジネス・ホテルに荷をおろし、夜の町を歩くと、人通りがまれで、
ふと暗い水底を歩いている思いがした。
めずらしく路傍に人影がむれているので、酒食を売る店かと思うと、
通夜をする家だったりした。‥‥」
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この一文が掲載されたのは「日本近代文学館第83号」で1985年1月1日刊
となっている
昭和60年である
大垣駅ビル「アピオ」の開業は1986年だから、それ以前に来ていることになる
それまでの大垣駅前は今以上に暗くさびれていただろう

今でも人通りは少なく、飲み屋などあまり見当たらないから
司馬でなくても暗い田舎町との印象をもったはずだ

それにしても「通夜する家だった」はひどい

しかし、暗い水底を歩いている思いがした、というのは
あたっているような気がする
くやしいが、さすが表現がうまい

水の都、大垣といわれる町だけに
この夜の寂しさは深い水の底にどんよりと沈んでいく

30年以上たった今でも駅前、というより大垣全体が
暗く沈んだままのようだ

平成の大合併にもノーとなり
あれだけ「西濃はひとつ」の合言葉の大合唱が
もろくも揖斐川の水の底に落とされ流されていった

それに比べ、岐阜市は駅前整備が着々進み、高層マンションや
商業ビル開発が波の乗り始めているというのに

ますます、大垣は西美濃の拠点も希薄で
やっと北口のアクアウォークが始動し始める程度だ

西美濃人の気性としては、陽気で華やかというより
コトコト、淡々と生きる、よそ様のことをうらやんでもしょうがない
地味でいい、そんなこともあるかもしれない

もっとさかのぼれば、西美濃はいつも政権争いの舞台となり
その戦場でしかなく、あとの政権は恐れて細切れの地域に分断し
それが長年、歴史的にもこうした覇気のない地域に押しやってしまった
のだろうか

司馬が「街道をゆく」で日本各地を歩いているが
「濃尾参州記」が絶筆になってしまい残念だった

すこしは美濃の人のことが書かれたかもしれないのに

2006年10月14日 (土)

白洲正子の西美濃(2)

白洲正子が西美濃を訪れたのは少なくとも3回はある。
そのうち、大垣市赤坂町の御茶屋屋敷に2度、牡丹を鑑賞に来ている。
あと1度は、安八郡神戸町の日吉神社にも来ている。

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「白山比咩(ひめ)の幻像」(十一面観音巡礼、講談社文芸文庫)という随筆に掲載されている。
この中で、正子は「この連載をはじめた頃から、どうしても見たいと思っている観音様があった。」
この観音様が神戸町の日吉神社にあるとわかり訪れたのだ。

日吉神社は、弘仁8年(817)安八太夫安次という人が、伝教大師を招いて近江の日吉山王を勧請したと伝えられ、毎年春に行われる「神戸の火祭り」は有名である。
しかし、優れた十一面観音像があるとは、私も知らなかった。
いや、地元でも知っている人はほとんどいないのではないだろうか。

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(行雲抄、世界文化社)
正子が、日吉神社を訪ね、宮司さんから収蔵庫の安置してある観音様をはじめて眼にしたとき
「私のあこがれていた観音様で、想像して以上の美しさに、思わず深いため息をつく」のであった。

「それは、
『梁塵秘抄』の今様が、そのまま現実の形となって現れたように見えた。
時代は平安中期ごろであろうか、今まで見たどの仏像より日本的で、彫刻も、彩色も、単純化されている。宝瓶は失われているが、首飾や瓔珞をつけていた形跡もない。頭上に十一面は頂いているものの、これはあきらかに神像である。

そういって悪ければ、日本の神に仏が合体した、その瞬間の姿をとらえたといえようか。
十一面観音は、様々の神に変化するが、美濃ならば白山比咩(ひめ)に違いないと私は思った」のである。

確かに、写真でみる限りこの十一面観音は実に素朴でいかにも初期のうぶな趣がある。
均整の取れた美術的な意味での作品というより、
かわいいというと失礼だが、愛嬌がある。

実物は30センチにも満たぬものらしい。
「行雲抄」のなかに
「心に残る観音像」という随筆では、正子が63の観音像をリストアップしている。
その中で、この日吉神社の観音像は、国宝の法隆寺の救世観音に次いで2番目にあげられているのである。
この観音像から受ける印象を
正子は
『梁塵秘抄』の
「仏は常にいませども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ」
ということばに置き換えている。

多くの観音像を見聞きし、観音信仰についての深い造詣のある白洲正子がこれほど絶賛している小さな観音像。

観音信仰は、この西美濃でも強く浸透している。
一方、白山信仰もごく普通に受け入れられている。
それにもかかわらず、なぜ地元はこれを取り上げていないのだろうか。
見方は、人それぞれではあるけれど、
なぜ評価されていないのか、
無視されてるのだろうか。

無名の彫刻師が、ごく自然に作り上げた観音像。
実物をぜひ見てみたいものだ。

2006年9月30日 (土)

白洲正子の西美濃(1)

白洲正子は西美濃へ少なくとも3度来ている。
[行雲抄」によると
うち、2回は、大垣・赤坂にある矢橋家の牡丹園である。
「矢橋家の牡丹園」という随筆の初出は「太陽シリーズ43 花の図鑑
夏」1986年5月(昭和61年)である。

本家の矢橋龍太郎氏から、牡丹を見に来ないかと招待されたのだ。
陶芸家、荒川豊蔵との関係を通じて懇意になったようだ。

矢橋家は地元でも名の通った旧家だ。
私の叔母(故人)は赤坂に嫁いだ。
その叔母がよく矢橋さん宅を「赤壁」といっていたものだ。

広大な土地、長い赤壁が続く屋敷、矢橋大理石、矢橋林業など関連企業をいくつも有している。
しかし、叔母からの情報はそれだけだった。

また矢橋さんは「お茶屋屋敷」と呼んでいる牡丹の名所も有しており
春には大勢の人が訪ねてくる。
場所は、中仙道・赤坂宿、現在は大垣市赤坂町にある。

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「まわりにひなびた竹垣をめぐらし、冠木門が開いている。
これは年中開けてあるのだそうで、誰でも自由に出入りすることができる。
・・・・眼の前に繚乱たる牡丹の林が出現した。」
確かにこれほど大規模な牡丹園は少ないだろう。

「本場の中国では、牡丹の花見といえば、明け方の3時頃から、1日がかりで行うのが普通である。・・・客は酒を飲み、ご馳走を食べながら昼寝をし、
酔眼朦朧とした中で花を鑑賞する。そして、夜ともなれば、・・・」
「牡丹園のかたわらに、三宜亭というお離れがあり・・・・。三宜亭というのは雪月花のことだそうで・・・まことに適した名前である」
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私は、花にはいたって疎いから牡丹の魅力はわからないが
「ほんとうにいい花が見られるのは一生のうち2へんか3べんしかない」らしいし「矢橋さんにうかがうと牡丹の花は時々刻々に姿を変えるという」

また正子は、牡丹に限らず、矢橋さん自身の生きかたに関心を持つのだ。
「矢橋さんには、『茶臭』がまったくないのが気持ちよい。」
矢橋さんは「わたしは宿場モンです。昔から利休や芭蕉が来ては去って行きました。文化のかおりは残していくが、何一つ身に付かない。」といわれる。
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白洲正子は、その年の暮れに寒牡丹を見に再び矢橋家を訪れている。
誰もいない園内に伊吹おろしにさらされた寒牡丹が寒さに抵抗して見事に咲いている。
「・・・ほんとうの美しさは、寒さに耐えて咲く寒牡丹にあることを、私は身にしみて知ったように思う」のだった。

こうした白洲正子の随筆は、簡潔で分かりやすい。それに読む人を納得させる何かがある。研ぎ澄まされた洞察力というのか、表現がうまく、その光景が鮮やかに再現されるようだ。

本物の文化とはこんなもんよ、とでも言いたげである。
西美濃に根付く歴史と文化をこうした視点から紹介されているのも嬉しいことだと思う。

2006年6月 3日 (土)

水上 勉 の西美濃

地元とは全く遠い存在と思える著名人でも、あるとき身近に深い関係があることを知ると何となくその人が急接近してくる。そして親しみを感じることがある。

ある著名人にとっての「にしみの」とはどんな存在で、どう描かれ、どのように感じ取られているのか興味深いところがある。

そうした事例をすこし掘り起こしてみました。

今回は水上勉です。「金閣炎上」や「飢餓海峡」など有名ですが、2004年9月に亡くなりました。85歳でした。

近くの図書館で水上勉の著作から単行本「たそ彼れの妖怪たち」をぱらぱらめくっていたら偶然にも、「美濃のおいずる」という短編が目にとまった。

「美濃の笈摺(おいずる)」とは、西国33ヶ所霊場巡礼の最後の札所谷汲山華厳寺における花山天皇御製のご詠歌に「いままでは、親とたのみし、おいずるを、脱ぎておさむる、美濃の谷汲」からきている。私もこの御詠歌だけは知っていました

水上勉が京都・等持院で小僧をしていたときの友人・衣斐陽三(いび・ようぞう)のことがこの話の中心となっている。

衣斐は美濃池田の生まれで故郷のことを水上に自慢していたという。「赤坂山にマッチ石の出るとこがあるんや。よく乗合馬車で遊びに行ったもんだ。近くには、揖斐という大きな川があるぞ。それから観音さんの祭ってある谷汲さんがあるねん」

陽三は2歳年上にもかかわらず妙に気があった友である。

等持院でふたりが小僧をしていたあるときとんでもない事件を起こしてしまう、なんと本堂の下で、池の鯉を喰って、和尚にみつかり、門の外に放り出されてしまうのである。

すぐさま、水上は若狭から大工の父が、衣斐は美濃池田から養母が京都に来て平謝りしてやっと許されたというのである。

その後ふたりは別々の道を歩んだ。水上にはその後衣斐の消息が不明だった。

そして終戦から7年後に陽三が死んでいたことがわかったのである。結核だった。そのころ後輩にあたる西尾勇司が「どうせ死ぬなら美濃で死にたい」という陽三の願いを聞いて40度近い熱のある陽三をやっとのおもいで美濃池田に送り届けた。

しかし、1年後再び京都に戻り終戦の年の春、等持院で死んだという。

一時的に美濃の池田にもどり静養していた頃、禅寺・瑞巌寺でも静養していたらしい。

水上は、京都で死んだ陽三のこころはきっと美濃の在所で眠っているのだろうと思うと哀しくなる。

陽三の愛した故郷の道を一度歩いてみたい。水上はそうしてこの地を訪ねたのである。

衣斐には出生の秘密があった。「わいのおっ母は、メカケやった。お父つぁんは学校の校長さんであった」「養母のタバコ屋で世話になっていた」それ以上のことは話さなかった。

水上の旅は大垣駅から始まる。タクシーに乗り、赤坂山、池田山を見て、神戸に入り、揖斐川を渡り、再び神戸(ごうど)から谷汲山へと向かう。そして最後に禅寺の瑞巌寺を訪ねたようだ。

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そうした中、水上は「やはり陽三が病躯を押して衣笠山から、美濃の故郷へ帰りたかった心には、単に帰巣のこころばかりでなく、誰かにひきよせられたのだと思える。誰かとは観音であるか、谷汲山の幟にふきつけていた風の音であったか。私にはわからない。」と締めくくっている。

確かに近江から美濃にかけては観音信仰が盛んだといっていい。

無意識の中にも、病苦や、死の苦について自然と手を合わせる信仰が今でも根付いているのかもしれない。

私も谷汲さんは、毎月のようにおまいりする。特に願掛けをしているわけではない、日常生活の延長のような自然な気持ちである。にしみの人がとりたてて信仰深いということを意識していない。ただ、多くの巡礼者が風のように表われそしていずこへと去っていく異邦人に観音さまの生きづかいを感じとっているのかもしれない。

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