2007年5月 7日 (月)

山科から京へ入る

京都へ行った

山科は京都であってもなかなか縁が薄い
いつでも通過していくからだ

そこで、JR琵琶湖線の山科駅で下車して
旧東海道を歩いて
京都の三条大橋をめざすことにした

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山科駅のすぐ南をかつての東海道が走っている
狭い旧道は
時間をはさんでは、車が一気に駆け抜ける
歩いていても危険が伴うから
ウロウロしておられない

旧街道の面影も時に見られるが
最近では街道歩きブログが流行していて
同じことをしていてもつまらない

で、自分流に見て歩こうと思う

ミニ車庫兼洗車場だ

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町屋風の旧い建物
この横にあるタイヤの黄色と防火バケツの赤とが
派手やかで目にとまった
それに水道も完備してます

さらに、横にはこんな張り紙がありました
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「当家の車が帰ってきます」ので・・・

なんとも分かりやすいというか
余計なことというか

関西人は、どうもおしゃべり好きだ

ニセ竹が並ぶ車除け風景
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なんでも京風どすえ

コンクリート製の車除けも竹に似せてあります
ちょっと気付けば、そこにも「キョウト」がある

伊右衛門自販機、発見!

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「お茶は伊右衛門どすえ」とばかりに
自販機丸ごとイエモンですが
中身はいろいろあります

ホッパラ町という謎のまちがある
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街道筋の案内地図に「日ノ岡ホッパラ町」とあった
興味本位に行ってみた

方向が分からず何度も行きつ戻りつ
迷宮の闇にはいってしまった

この町には、きっと
ホッパラ電機、ホッパラ商店など
ホッパラの文字があちこちで目に付き
看板から道路標示まで
ホッパラ天国かな、と想像してわくわくしていた

で、見かけたのが
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この京都市広報版、それに市営住宅の看板
わずか2枚のみ
と、いうことはホッパラという名は
あまり歓迎されていないようだ

いささか残念だ


琵琶湖疎水が静かに流れている
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旧街道を山際にぎっしりと建つ住宅街を抜ける

何も気をつけないと分からない空間が
ふとした水のささやきに誘われて
足を向けると素晴らしい光景に出会うのだ

琵琶湖疎水は、この山科では
桜や紅葉以外
ジョギング、散歩で
地元の人のみ知っている穴場的存在だ

明治後期から100年以上も京都に水を送り続けている


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新緑が独占できる空間がここにある
目にしみいるようなあざやかさ


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しかし、
ここでも野生の動物に保護と生活防衛との
葛藤がチラシに書かれていて
現代の大きな課題になっている

猿でも猪でも根は同じ


平成の新撰組同士募集!
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「府民の明日も京を守る」警察官募集広告だ

年々、悪質化する犯罪と闘い
京の治安を守るため
若き闘志よ、来たれ、という触れ込みだ

まさしく、平成の新撰組・組員募集案内だ

東京でも警視庁が就活イベントに参加している時代だ
ここのポスター、
筆字で、さすが京都らしい


多聞を好むことなかれ、渇!

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疎水の流れる山深くにあったお寺
情報に流されるな、という戒め

さすがに、というか、ご立派

でも、どこか虚しいような思いもするが


「亀の水不動さま」がひっそりと

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日ノ岡峠にある通称・亀の水不動さまである

峠越えのとき
しばし旅人が喉を潤した場所といわれている

江戸時代に、木食上人が道路を改修し
同時にこうした休憩所を設けたという

いまではひっそりした住宅街の片隅にひっそり
残っているのみ

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頻繁に行き交う右手の国道
左は旧道です

以前はここを京阪・大津線が路面電車で走り
道路に活気があった

東海道のゴールは三条大橋

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やっと、着きました
今でも賑わうサイコロの上がり、「三条大橋」

旅の終結点でもあり、出発点でもある

どちらにしても
最初と最後はくるくると回っている

まるでメビウスの環のように

GWの中、昔の時代を思いつつ
京の入り口に着いた

新鮮な気分だった

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2007年1月14日 (日)

松山・大洲・内子への旅(5)

内子の町並みを見たい

内子の名は全国的に知られている。
古い町並みが残っているからである。
今回ぜひ訪ねてみたいところだった。

大洲から内子線を通り特急で9分。
意外に近い。

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JR内子駅では観光客は数人だった。
最近ではマイカーや観光バスなど
高速道路から来る人が多いからだろう。

特急はむしろ地元の人の貴重な足になっている。

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内子駅から見た町は静かな山間の田舎町の印象。
駅からさっそく歩いてみる。
駅前を左折して本町通りを歩く。
狭い商店街が続く。
国道56号や松山自動車道はこの町から少し離れている。
そのおかげで比較的静けさが保たれている。

左に入ったところにあるのが芝居小屋「内子座」だ。

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大正5年に創建された木造二階建ての劇場。
農閑期に歌舞伎、人形芝居、映画など上演してきた。
そして老朽化と客が少なくなって取り壊わされることに。
しかし、保存運動が実を結び昭和60年に復元された。

木戸銭を払う代わりに入館料を出して板の間を進む。

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内部はすべて板の間で桟敷席が左右に広がっている。
正面に御用松が描かれた舞台。
今にも演劇が始まりそうである。
派手な衣装に大げさな立ち振る舞い
そして拍手と喝采と笑いでざわめく客達。
いいねぇ。
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地階に下りると通路があり舞台下の奈落がみられる。
回り舞台になっている。
数人でこの舞台を回したのだ。


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「商いと暮らし博物館」は大正時代の薬屋の暮らしを再現した博物館。
リアルなマネキン人形が動き、しゃべるので一瞬本物かと思われた。
ドキリとする。
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いまにも振り向いて話しかけられそうで怖い!


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伊予銀行内子支店から左に折れ坂道を上がっていく。
ここが八日市・護国地区の町並みである。
昭和57年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
600メートルにわたって約120棟の家が連続して建てられている。
このうち90棟が伝統的な民家という。

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海鼠壁、虫籠窓、うだつ、といった美しい色、形。
漆喰で塗り固めた白い壁。
防火を兼ねて造られた商家の建造物は
見ていてもあきがこない。
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うだつは、岐阜県の関市でも有名だ。
「うだつが上がらぬ」というが
これだけのうだつはなかなか見られない。

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木蝋資料館があるのは上芳我(かみはが)邸。
ハゼノキの実から木蝋を取り出し、巨万の富を築いた。
そして明治27年にこの風格のある建物ができあがった。

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大きな敷地に作業場がある。
実を粉にして搾る大きな道具。
当時の全盛を誇る男達の声が聞こえてきそうだ。

しかし
今では、こうしたものづくりができる職人はこの町にはいない。
隣町にたった一人いるだけですと受付の女性は話された。


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内子の町はとても静かだった。
とびきり、有名なお土産や名物があるわけでもなし。
観光客相手の茶店も積極的に呼び込むこともしない。
いたってのんびりしている。

司馬遼太郎は「街道をゆく」の「南伊予・西土佐の道」のなかで
内子について少しだけふれている。

『内子の町はどこか古風で道を行くひとびとの歩き方までが悠長にみえた。』

内子の静かな通りを歩きながら思った。
人がそれぞれの地でさまざまな生き方をしている。
明治や江戸の頃もそういう意味では
今とあまり変わっていない。
むしろ、昔のほうが知恵をだし工夫をして
懸命に生きていたような気がする。

(松山・大洲・内子への旅、終)






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2007年1月13日 (土)

松山・大洲・内子への旅(4)

伊予の小京都・大洲へ

翌日、大洲に出かけることになった。
しかし、数分の違いで特急「宇和海」に乗り遅れた。
思案の末、各駅停車の普通列車で行くことにした。

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1両のディーゼルカーである。
乗客は、老人と高校生風な若者。
あと少し私たちのような旅行者が数名。
時間がゆったり進んでいる、という感じだ。

予讃線は伊予市からふたつに別れる。
JR内子線と従来の予讃線である。
特急はすべて内子線回りで距離も短い。

普通列車は海岸線をへばりつくように走り
小さな集落に無人駅があるが乗降客はほとんどいない。
右側の車窓には伊予灘が見える。

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遠くにある島は周防大島だろうか。
あの民俗学者・宮本常一氏のふるさとである。
8月にあの島を訪れたのが、すでに懐かしい。

伊予長浜から線路が急カーブして海から遠ざかる。
川に沿って上っていくのだ。
肱川(ひじ)である。

この河口には「肱川あらし」が発生するとパンフレットの書いてある。
大洲盆地で発生した濃い霧が強風とともに一気に河口に流れていく
現象をいう。
この自然現象が幻想的らしい。

大洲はこの肱川によって開けたと言ってもよい。
船運が盛んだった頃は肱川と瀬戸内海を通して
日本中に繋がっていたのだ。

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その肱川が大きく蛇行したところに大洲の街がある。
その中心地は、大洲駅から肱川橋を渡ったところである。

大洲城が見えた

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大洲城は、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰らにより完成。
肱川とその内堀で築かれた強固な城であったが
明治期に壊され、平成16年に復元されたという。
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江戸期の大洲城が実際どのような情景だったのか。
それをCG化したものがある。
「よみがえる日本の城10」で大洲城全景が見事に復元されている。
(発行 学研)
それによると肱川の水を利用した、外堀、内堀が城を取り囲み
いくつもの門と櫓で防御を固めている。


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肱川には、鵜飼があるという。
パンフレットには「日本三大鵜飼」のひとつというが
西美濃人としては、鵜飼は長良川というイメージが強すぎて
本当?なんて思ったりする。
そういわれてみると風景も金華山付近に似ているかもね。

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「おはなはん通り」と名付けられた小路。
NHKテレビのロケ地となった。
ただ、それほどの雰囲気はない。
「伊予の小京都」というほどの町並みは残っていない。

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肱川の高台に建った別荘「臥龍山荘」
明治期に豪商が建てたもの。

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桂離宮などを参考にした、落ち着いた造りだ。
ほとんど人が来ない。
テープによる建築仕様の説明は詳しいが、
今の生活スタイルからはかけ離れすぎていて
ピンと来ない。
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崖の上に建つ「不老庵」からの風景はなかなかのもの。
静かに酒を一献傾けるのもよし、
寝転がって空を見るのもよし。

ここだけはおそらく明治期の趣が残されているのかな
と思った。
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司馬遼太郎は「街道をゆく」のうち
「南伊予・西土佐の道」で
砥部、内子、大洲などを旅している。

その中で司馬は
「私が昭和30年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき
、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息をわすれる思いがした。」
と書いている。

それから、半世紀たっているのだ。
変わらないことがむしろ珍しい。
今回、復元された大洲城へは行かなかった。

司馬氏の言葉のように肱川からの景観だけを
旅のみやげとした。
          (以下続く)

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2007年1月 8日 (月)

松山・大洲・内子への旅(3)

旅館「ふなや」
泊まった宿は老舗旅館の「ふなや」さん
大きな庭園があって、とても落ち着いている。

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翌朝、すぐ近くにある伊佐爾波神社に行った。
急な石段を上がると、眼下に温泉街がみえる。
石段のすぐ左にある建物が「ふなや」。


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          (道後温泉を見下ろす石段)

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             (伊佐爾波神社)
朱色の八幡造りが豪華な神社だ。
誰もいなかった。

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                  (宝厳寺)
伊佐爾波神社から徒歩5分くらいで宝厳寺だ。
時宗の開祖・一遍上人の生誕の地といわれる。
ヘエ知らなかったな。
由緒あるお寺なんだ。
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                            (子規の句碑)
「色里や 十歩はなれて 秋のかぜ」子規
夏目漱石と道後温泉に来てこのお寺に立ち寄り
そのときの作品。


ここでも誰一人会わず、ひっそりしている。
温泉街といっても、草津や下呂、渋温泉のように
下駄履いてお客が早朝散歩する風情はなさそうだ。

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              (ふなやの朝食)
宿に戻って朝食。
盛り付けもきれいで、私には充分食べきれない
ほどありました。
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 (ふなやから見る松山市立子規記念博物館)
ところで、ふなやの部屋から見えていた大きな建物は
「子規記念博物館」だった。
ふなやの広い庭園を抜けて道路に出ると目の前が
博物館の入り口だ。
入館料は400円。

近代俳句の父・正岡子規を記念して昭和56年に建てられた。
子規の生きた時代・そして子規の人間像・松山の歴史などが
書簡、写真、資料などで構成され見ごたえ充分。

子規は旅が大好きだったことは意外に知られていない。
(私だけかもしれないが・・・)
やはり、先達・芭蕉の影響なのか。
明治24年に木曽路も歩いている。
確か馬籠辺りに句碑があったような。

明治26年には東北地方を歩き「はてしらずの記」
にまとめている。
芭蕉の「奥の細道」を強く意識していたのだろうか。
ところで、大垣は「奥の細道・結びの地」である。
そして大垣も俳句が盛んであった。

もうひとつは、子規の貪欲ともいえる食欲だ。
特に子規は病床で寝たきりの弱々しいイメージがある。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」

だから朝食から粥三椀、佃煮、牛乳とか
昼には粥三椀、鯛の刺身など
どこが病人じゃ!と思えるくらい
食べたがりの大食かんには驚かされた。

ともかく子規記念館は訪れるだけの価値があり
お勧めの場所です。
         

松山城
城下町のシンボルはやはり城だ。
勝山(標高132m)に建っている。

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                    (松山城)
ロープウエイで2分。
加藤嘉明が築城。その後松平家15万石。
石垣が立派である。
瀬戸内海から運んできたのだろうか。

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                   (天守閣)
天守にまで行く道が長く、城門を潜り抜ける。
この11月「平成の大改修」が終わったところだ。
屋根や壁が美しく蘇ったとか。
確かに汚れや崩れがなく整備がなされていたようだ。
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           (天守から見た松山市街)
天守閣に登ると見晴らしがいい。
城が市の中心にあるので、四方が見渡せる。

「村でも町でも新しく訪ねていったところは、
かならず高いところへ上がってみよ。
そして方向を知り、目立つものを見よ。・・・
・・そして山の上で目をひいたものがあったら、
そこへは必ずいってみることだ。
高いところでよく見ておいたら道に迷うようなことは
ほとんどない。」
   (宮本常一の父・善十郎から郷里を出る際に話された教訓メモ)

私の好きな民俗学者・宮本常一氏のこの教訓は
今でも旅をするときに心がけていることだ。
そして、立派にこのことは当たっている。

ある知らない町や村を訪れるときは、頭の中に大まかな地図を
インプットしておく。
そして、現地ではできるだけ自分の足で歩く。
そうすると、一層その土地がわかる。
                    (続く)

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2007年1月 6日 (土)

松山・大洲・内子への旅(2)

松山の市内電車は一回150円
1DAYチケット300円で1日乗り放題。
これが便利です。
それに驚いたことにいわゆる
ワンタッチのICカード乗車券も導入されていた。
進んでる~

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松山のちんちん電車は3種類ある。
①観光向けの坊ちゃん列車。
②低床電車
③そして従来からの電車。

タクシーの運転手が言っていた。
「松山には昔からの電車が一番似合いますよ」

ところで
岐阜にも市内電車が走っていた。
名鉄美濃町線や揖斐線など。
赤字で廃止されてしまった。

岐阜城を背景に赤い電車が岐阜市内を走るのは
けっこう絵になった。
しかし、マイカー、バスに押され渋滞が日常化し
とうとう撤退となった。

しかし、フランスのパリ市では昨年12月
69年ぶりに市電が復活したというニュース。
新しい動きが出てきているのだ。

中部地方では、豊橋、富山などで市電が走っている。
ぜひとも残して欲しい。
そういう点では松山もよくがんばってると思う。

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               (夜の松山市内)
さて、松山の繁華街は「大街道」だ。
三越・松山店を中心に長いアーケードが続く。
面白いのは自転車が一杯止めてあったこと。
このあたりにローカルな雰囲気を感じた。
ただ、こういった繁華街はどの町も同じようで
クリスマス商戦の賑わいだった。

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いっぽう、道後温泉商店街では松山らしく
坊ちゃんとマドンナ、お巡りさんの姿で
雰囲気を盛り上げていたが
寒い夜だったので、人も少なめの肩透かしといったところ。
            (以下続く)

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松山・大洲・内子への旅(1)

伊予の国・松山へ
松山に初めて行った。
四国・愛媛県の松山市。
名古屋から新幹線「のぞみ」で岡山まで1時間40分。
さらに特急「しおかぜ」で2時間50分。
あわせて4時間30分だ。

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            (特急しおかぜ車内)
とにかく、お尻が痛い。
12月なのにお客は少ない。
この車内でも3組くらいでガラガラだ。
正月の帰省のため旅行を手控えているのか。
車内販売もないし、
これじゃJR四国も赤字だろう。

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                (瀬戸大橋線)

巨大な橋桁をゴーゴーという音とともに走る。
橋桁から見下ろす瀬戸内海は
海というより大きな河という印象が強い。


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               (瀬戸大橋線)

四国に入る。
とにかく遠い。
特に予讃線は単線でとろとろ走りで
車窓から見る風景も単調そのもの。
瀬戸内海沿いに西に進む。

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                (コンビナート)

瀬戸内海に面して海を埋め立て造成した土地に
煙突、タンク群が並ぶ。
大規模な工場、原材料を運ぶ大型船が横付けされ
独特の風景が目に入ってくる。

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            (しおかぜ車窓から)

丸亀、多度津、新居浜、今治と進む。
けっこう建物はあるし、民家も工場も多い。
ありふれた車窓風景だ。
車、道路、民家、コンビニ、看板、カラスの群れ
どこへ行ってもローカル色が薄れ、
全国が均一化に向かって進んでいる。
金太郎飴現象。

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             (車窓風景・民家)

『汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。
田や畑に植えられているか、育ちがよいかわるいか、
村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か茅葺か、
そういうこともよく見ることだ。・・・・・・』

民俗学者・宮本常一が父・善十郎から郷里を出る際に
話された十の教訓メモのひとつである。

この言葉、私も気に入っている。
旅行をすると、いつも車窓風景を見ている。
ただ寝ているのは何かもったいないようで。
自分の目で確かめたい、そういう気持ちだ。

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                 (車窓風景)

やっと、みかん畑が見え、
「オッツ!みかんの国へ来たな」とホッとする。

松山駅に3時過ぎに着く。
駅のざわめきが好きだ。
そこの町の匂いがどんなものか確かめる。
これも宮本流の儀式かも。

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                 (JR松山駅)

「春や昔 十五万石の城下かな」 子規
という句碑が駅前にある。
やはり、松山は子規のイメージが強い。

今夜の宿は道後温泉にある「ふなや」
荷物を置いて散策しよう。
まずは名所、道後温泉本館。


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                  (正面玄関)
日本最古の歴史を誇る道後温泉。
木造三層楼の本館は明治27年建築。
国の重要文化財にもなっている。


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                 (本館建物)
本館は銭湯だから誰でも入れる。
興味本位で入ってみよう。
神の湯・2階席は貸し浴衣、お茶、せんべいが付く。
大人一人800円。
広い畳敷き。一人づつその場で浴衣に着替える。
ちょっと、恥ずかしい。
むろん女性は別の部屋だ。

1階に降りて裸になり風呂に入る。
大きな銭湯の雰囲気だ。

ただし、富士山のペンキ絵はない。
湯は無色透明でそれほど特徴はない。
風呂上りのお茶がいい。

3階にある「坊ちゃんの間」も見学した。


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                (本館前の店)
本館前はおみやげ屋さんが並んでいる商店街。
お菓子は名物一六タルトだ。
ロールカステラ風だが柚子が入っている。
最近は一口サイズに切ってあるものが売れてるようだ。

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          (松山の足・チンチン電車)

松山市街は何となく賑やかだ。
市内電車が走っているからかもしれない。
伊予鉄道市内電車だ。
こうした城下町には似合っている。
                 (以下続く)

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