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2007年10月27日 (土)

[奥のほそ道」と大垣(2)

なぜ大垣が『奥の細道』の「むすびの地」となったのか

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芭蕉が大垣を結びの地と決めたのは大きな理由があったのだ

まず、ひとつは大垣に「谷 木因という友人がいたことである
ところで、
その「木因」ってどういう人なの?

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           (谷 木因像)

谷木因は大垣で回船問屋をしていた

俳諧は当時は遊びであり教養であったのだが
芭蕉の俳諧の先生・北村季吟と同門であった
つまり同級生だったのである

芭蕉とは江戸で連句を作ることもあったし
お互いに手紙のやり取りをして、
その実力を確かめあったりしたこともあり
芭蕉は木因を大いに評価していた

ところで、芭蕉は大垣に四回も訪れている

最初は、貞享元年(1684年)だ
いわゆる「野ざらし紀行」のときだ

芭蕉の母が前年亡くなったあと、
墓参のため故郷伊賀上野にも帰った
そのあと、吉野、近江などを経て美濃・大垣にやってきた

このとき、出迎えたのはもちろん、谷木因だ
大垣には他にも多くの芭蕉の門人がいたのだ
そして大歓迎を受けたのだ

このとき作ったのが

 
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮

木因は商いや遊びを通じて深い繋がりがあった
名古屋の俳人たちと芭蕉と引き合わせたりして
大いに尾張蕉門の繁栄に貢献している

こうして、名古屋では『冬の日』という歌仙が作られている
大きな成果だった

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                   (水門川)

ふたつめは、やはり大垣が交通の要であったことだろう

これは、今の感覚からすると意外な感じがする
しかし、電車や自動車が全くなかった時代を考えてみよう

歩くしかなかった時代に船は、唯一の大量輸送手段であったのだ
海ばかりではなく、川はその重要な交通路だった

大垣は、水門川、杭瀬川、牧田川などから揖斐川に入り
桑名に出て、さらに熱田の宮に至るコースが幹線としてあり
人や荷物が運ばれていた

また、大垣から西へ垂井、関ヶ原の陸路を経て
米原の朝妻港へ運ばれ琵琶湖から大津、または長浜、北陸へと
物資が輸送されていた

だから、江戸幕府も岐阜よりも大垣を重視し
戸田10万石大名を配置して西国からの備えとしたのだ


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            ( 住吉灯台)

その大垣の要が船町港であり、美濃路、中仙道とも通じて
人・物資が行き交っていた

船町港の回船問屋を営んでいたのが、谷木因だった

Img_0590

大垣には木因のほか近藤如行、など蕉門の弟子が多くいた
こうした人たちがいることの安堵感が
長い旅路「おくの細道」の結びの地として
大垣を選んだと思われるのだ

                 (続きは次回にまた)





そしてそして

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