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2007年7月11日 (水)

司馬遼太郎と大垣

水底(みなそこ)の町

司馬遼太郎は大垣の印象を「水底の町」と言っている
司馬が「大垣ゆき」という題で短いエッセイを書いており、
その一部には
「‥‥‥
 大垣についたのは、夜だった。
ビジネス・ホテルに荷をおろし、夜の町を歩くと、人通りがまれで、
ふと暗い水底を歩いている思いがした。
めずらしく路傍に人影がむれているので、酒食を売る店かと思うと、
通夜をする家だったりした。‥‥」
No_009
この一文が掲載されたのは「日本近代文学館第83号」で1985年1月1日刊
となっている
昭和60年である
大垣駅ビル「アピオ」の開業は1986年だから、それ以前に来ていることになる
それまでの大垣駅前は今以上に暗くさびれていただろう

今でも人通りは少なく、飲み屋などあまり見当たらないから
司馬でなくても暗い田舎町との印象をもったはずだ

それにしても「通夜する家だった」はひどい

しかし、暗い水底を歩いている思いがした、というのは
あたっているような気がする
くやしいが、さすが表現がうまい

水の都、大垣といわれる町だけに
この夜の寂しさは深い水の底にどんよりと沈んでいく

30年以上たった今でも駅前、というより大垣全体が
暗く沈んだままのようだ

平成の大合併にもノーとなり
あれだけ「西濃はひとつ」の合言葉の大合唱が
もろくも揖斐川の水の底に落とされ流されていった

それに比べ、岐阜市は駅前整備が着々進み、高層マンションや
商業ビル開発が波の乗り始めているというのに

ますます、大垣は西美濃の拠点も希薄で
やっと北口のアクアウォークが始動し始める程度だ

西美濃人の気性としては、陽気で華やかというより
コトコト、淡々と生きる、よそ様のことをうらやんでもしょうがない
地味でいい、そんなこともあるかもしれない

もっとさかのぼれば、西美濃はいつも政権争いの舞台となり
その戦場でしかなく、あとの政権は恐れて細切れの地域に分断し
それが長年、歴史的にもこうした覇気のない地域に押しやってしまった
のだろうか

司馬が「街道をゆく」で日本各地を歩いているが
「濃尾参州記」が絶筆になってしまい残念だった

すこしは美濃の人のことが書かれたかもしれないのに

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