西美濃の名水(5)
教如上人『御清水潤いの泉』
揖斐川の支流・粕川に沿って車を走らせる。
北に小島山、南に池田山。
この辺りは旧・春日村だ。
合併して揖斐川町になった。
今年は暖冬で、この辺り、雪がない。
曲がりくねった狭い道を上っていく。
山沿いに車が止まっている。
どうやらこれらしい。
教如上人「御清水 潤いの泉」と書いてある。
教如上人といえば、東本願寺の創設者だ。
この山奥とどういう関係があるのか。
冷たい清水が流れ出ている。
岩の中から湧き出しているのだ。
「御清水・潤いの泉」の謂れが書いてある。
さらに詳しく調べてみると教如上人と西美濃とは深い関係にあった。
織田信長と本願寺との闘いに破れ、大阪本願寺が焼失。
その後教如上人は美濃、飛騨などを転々とした。
秀吉が天下をとり、京都・7条堀川に広大な土地を寄進され
第11代顕如上人、その後、教如上人が跡をついだ。
そして、今度は秀吉から突然の隠居命令がでる。
秀吉が死ぬと政局がさらに混乱。
教如上人は家康に近づく。
そして、
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのすこし前、7月
家康のいる関東から京へ帰る途中、美濃に入り
教如上人は三成ら西軍方の襲撃をうける。
美濃の安八町の光顕寺に匿われかろうじて生き延びた。
さらに信徒に守られ安八郡平野庄草道島(現大垣市)・西園寺へ
ここからは揖斐春日谷の強者に伴われ池田町の正光寺、などを経て
春日村へ逃れたのであった。
9月、関ヶ原で三成ら西軍が破れたため、国見峠を越え
近江長浜から京にたどり着いたのである。
1602年、家康は京都・6条烏丸に広大な土地を寄進。
こうして東本願寺が成立したのである。
この御清水は、そのときに休息され口にされたもので
今でも流れ続けている。
プラボトルに詰め込んでいる女性に聞いた
「お茶に使われるんですか?」
「いいえ、そのまま飲むんです。
私のお友達がこの水を飲んでから石が消えちゃったというんです。
それ聞いて、私も貰いに来てます」
そして、何本も詰めておられた。
多分、こうしたクチコミで知られていくのだろう。
地元・岐阜や尾張小牧、名古屋ナンバー。
次から次へと車がやってきて、黙々と作業を終えて帰っていく。
信ずることは確かに強い、そう思った。
やはり、これも「名水」だろう。
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コメント
現在この泉「御清水・潤いの泉」は閉鎖中です。
12月7日に現地に行って確認してきました。
話によると9月2日に土砂崩れで埋まってしまったようです。行く途中でもそれらしき後が沢山ありました。
もし、そちらに水を汲みに行く方が居られましたら麓のオートキャンプ場に水の汲める場所がありますからそちらの方に行ったほうがよいと思います。
水の出る口が多いので人が多くてもそんなには待たなくてもいいです。
投稿: | 2008年12月 9日 (火) 06時12分