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2007年1月13日 (土)

松山・大洲・内子への旅(4)

伊予の小京都・大洲へ

翌日、大洲に出かけることになった。
しかし、数分の違いで特急「宇和海」に乗り遅れた。
思案の末、各駅停車の普通列車で行くことにした。

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1両のディーゼルカーである。
乗客は、老人と高校生風な若者。
あと少し私たちのような旅行者が数名。
時間がゆったり進んでいる、という感じだ。

予讃線は伊予市からふたつに別れる。
JR内子線と従来の予讃線である。
特急はすべて内子線回りで距離も短い。

普通列車は海岸線をへばりつくように走り
小さな集落に無人駅があるが乗降客はほとんどいない。
右側の車窓には伊予灘が見える。

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遠くにある島は周防大島だろうか。
あの民俗学者・宮本常一氏のふるさとである。
8月にあの島を訪れたのが、すでに懐かしい。

伊予長浜から線路が急カーブして海から遠ざかる。
川に沿って上っていくのだ。
肱川(ひじ)である。

この河口には「肱川あらし」が発生するとパンフレットの書いてある。
大洲盆地で発生した濃い霧が強風とともに一気に河口に流れていく
現象をいう。
この自然現象が幻想的らしい。

大洲はこの肱川によって開けたと言ってもよい。
船運が盛んだった頃は肱川と瀬戸内海を通して
日本中に繋がっていたのだ。

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その肱川が大きく蛇行したところに大洲の街がある。
その中心地は、大洲駅から肱川橋を渡ったところである。

大洲城が見えた

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大洲城は、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰らにより完成。
肱川とその内堀で築かれた強固な城であったが
明治期に壊され、平成16年に復元されたという。
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江戸期の大洲城が実際どのような情景だったのか。
それをCG化したものがある。
「よみがえる日本の城10」で大洲城全景が見事に復元されている。
(発行 学研)
それによると肱川の水を利用した、外堀、内堀が城を取り囲み
いくつもの門と櫓で防御を固めている。


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肱川には、鵜飼があるという。
パンフレットには「日本三大鵜飼」のひとつというが
西美濃人としては、鵜飼は長良川というイメージが強すぎて
本当?なんて思ったりする。
そういわれてみると風景も金華山付近に似ているかもね。

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「おはなはん通り」と名付けられた小路。
NHKテレビのロケ地となった。
ただ、それほどの雰囲気はない。
「伊予の小京都」というほどの町並みは残っていない。

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肱川の高台に建った別荘「臥龍山荘」
明治期に豪商が建てたもの。

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桂離宮などを参考にした、落ち着いた造りだ。
ほとんど人が来ない。
テープによる建築仕様の説明は詳しいが、
今の生活スタイルからはかけ離れすぎていて
ピンと来ない。
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崖の上に建つ「不老庵」からの風景はなかなかのもの。
静かに酒を一献傾けるのもよし、
寝転がって空を見るのもよし。

ここだけはおそらく明治期の趣が残されているのかな
と思った。
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司馬遼太郎は「街道をゆく」のうち
「南伊予・西土佐の道」で
砥部、内子、大洲などを旅している。

その中で司馬は
「私が昭和30年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき
、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息をわすれる思いがした。」
と書いている。

それから、半世紀たっているのだ。
変わらないことがむしろ珍しい。
今回、復元された大洲城へは行かなかった。

司馬氏の言葉のように肱川からの景観だけを
旅のみやげとした。
          (以下続く)

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