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2006年9月30日 (土)

白洲正子の西美濃(1)

白洲正子は西美濃へ少なくとも3度来ている。
[行雲抄」によると
うち、2回は、大垣・赤坂にある矢橋家の牡丹園である。
「矢橋家の牡丹園」という随筆の初出は「太陽シリーズ43 花の図鑑
夏」1986年5月(昭和61年)である。

本家の矢橋龍太郎氏から、牡丹を見に来ないかと招待されたのだ。
陶芸家、荒川豊蔵との関係を通じて懇意になったようだ。

矢橋家は地元でも名の通った旧家だ。
私の叔母(故人)は赤坂に嫁いだ。
その叔母がよく矢橋さん宅を「赤壁」といっていたものだ。

広大な土地、長い赤壁が続く屋敷、矢橋大理石、矢橋林業など関連企業をいくつも有している。
しかし、叔母からの情報はそれだけだった。

また矢橋さんは「お茶屋屋敷」と呼んでいる牡丹の名所も有しており
春には大勢の人が訪ねてくる。
場所は、中仙道・赤坂宿、現在は大垣市赤坂町にある。

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「まわりにひなびた竹垣をめぐらし、冠木門が開いている。
これは年中開けてあるのだそうで、誰でも自由に出入りすることができる。
・・・・眼の前に繚乱たる牡丹の林が出現した。」
確かにこれほど大規模な牡丹園は少ないだろう。

「本場の中国では、牡丹の花見といえば、明け方の3時頃から、1日がかりで行うのが普通である。・・・客は酒を飲み、ご馳走を食べながら昼寝をし、
酔眼朦朧とした中で花を鑑賞する。そして、夜ともなれば、・・・」
「牡丹園のかたわらに、三宜亭というお離れがあり・・・・。三宜亭というのは雪月花のことだそうで・・・まことに適した名前である」
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私は、花にはいたって疎いから牡丹の魅力はわからないが
「ほんとうにいい花が見られるのは一生のうち2へんか3べんしかない」らしいし「矢橋さんにうかがうと牡丹の花は時々刻々に姿を変えるという」

また正子は、牡丹に限らず、矢橋さん自身の生きかたに関心を持つのだ。
「矢橋さんには、『茶臭』がまったくないのが気持ちよい。」
矢橋さんは「わたしは宿場モンです。昔から利休や芭蕉が来ては去って行きました。文化のかおりは残していくが、何一つ身に付かない。」といわれる。
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白洲正子は、その年の暮れに寒牡丹を見に再び矢橋家を訪れている。
誰もいない園内に伊吹おろしにさらされた寒牡丹が寒さに抵抗して見事に咲いている。
「・・・ほんとうの美しさは、寒さに耐えて咲く寒牡丹にあることを、私は身にしみて知ったように思う」のだった。

こうした白洲正子の随筆は、簡潔で分かりやすい。それに読む人を納得させる何かがある。研ぎ澄まされた洞察力というのか、表現がうまく、その光景が鮮やかに再現されるようだ。

本物の文化とはこんなもんよ、とでも言いたげである。
西美濃に根付く歴史と文化をこうした視点から紹介されているのも嬉しいことだと思う。

街道てくてく旅

中仙道・赤坂宿に来たぞ!がんばれ郁恵!

NHK・BS2で放映してる街道てくてく旅
いま、西美濃を通過中。
勅使河原郁恵ちゃんもなかなかおもろいキャラで笑える。
岐阜県の出身らしいぞ。
9月18日から京都、大津。草津と始まって、近江路を武佐、
愛知川、高宮、鳥居本、醒ヶ井、柏原が9月27日
今日、29日は赤坂港跡で近所の年寄り集団が歓迎。
大垣ケーブルテレビの唯一の美人アナウンサー加世ちゃん。
おかめ顔が今日はやけにきれいだった。
一気に全国に顔が知れ渡りうれしそうだったな。
垂井宿では、中仙道博物館の館長・太田三郎さんも登場!
この先生も郷土史家としては西美濃でも有名人。
月曜日は、揖斐川、呂久の渡し、皇女和宮の碑がある公園
美江寺観音があった美江寺宿へと歩く。
土日は放映なし。

郁恵ちゃんも休みかな。
とにかく楽しい番組だが、いつも時間が変わるのがイカン!

2006年9月29日 (金)

路上観察・中仙道(中津川)

路上観察・中仙道六十九次
「路上観察・華の東海道五十三次」という本がある。
(文春文庫)
赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊、林丈二、松田哲夫
の路上観察学会の5人が、
名所旧跡ばかりが東海道の魅力ではない、と旧街道を歩いて
張り紙、看板、建物など街角にひそむ珍にして妙なる物件を
採集したものだ。

それに引き換え
「大の大人が5人でやる遊びか!」と

それにささやかに対抗心を持ちつつ、遊び心も手伝って始めよう。
コツコツと歩いて。
キョロキョロと見つける。
歴史や文化は言わば表の顔。
それを
ナナメ読み、裏読み、などしてみる。

珍奇な物件、看板、面白い建物、雑品を求めて
西へ!東へ!いざ。
といっても京、江戸ははるか遠い。
西美濃に住む私としては、日帰りコースの範囲から始めるのが
よかろう、と決意。


さあ、これからスタートだ!
さてと、
美濃路と木曽路の境
中津川が記念すべきスタート地点としよう。

第一弾 無用な階段と無用庇(ひさし)登場!

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まさにうってつけ!
 無用階段と無用庇(ひさし)のトマソンセット。
 豪華版!
 このはてしない企画のスタートを祝福するかのごとき物件だ。

 昔は、ここにドアがあったはず。
 まさか、窓から出入りするのじゃないでしょうね?

 今は子供の遊びに利用されるだけだ。
 トントン上がって、壁にぶつかって、またトントン下がる。
 意味のない永遠の階段遊び。
 
 
庇も雨露から何を守ろうとしているのか。
 中仙道沿いにありながら
 気がつく人はいませんなあ。
 ああ、君は蔦にも絡まれて
 かわいそう。
 第1号を飾るに相応しい物件だ!感謝!
 (中津川・茶屋坂)


もう、休ませてやってよ!

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錆び錆びの標識は、ほとんど寝たきり状態。
少し傾きながら必死に訴えているが
何を言いたいのかわからない。
飛び出し注意!
カーブ、スピード落とせ!
なのか。
でも、地元では、ごく自然に見られている。
植木の仲間みたいなものらしい。(中津川・与坂)

2006年9月24日 (日)

中仙道を歩く/落合宿~馬籠宿

落合川にかかる下桁橋を渡ると急な坂道が続き息が切れる。
断続的に民家や竹やぶがあったりする。
十曲峠である。
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平坦になり、左にカーブすると山中薬師
いわゆる医王寺に着く。
本尊は薬師如来さま。
傷に効く狐膏薬が江戸時代は名物だったとか。
いつの時代も病気と死は苦だ。
特に旅に病む者が多い。
先を急ぐ者も手を合せて通ったであろう。
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秋らしく、コスモスが咲いていた。

道がふたつになり右手の坂を上がると石畳が続いている。

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案内表示に「中仙道落合の石畳」とある。
しかし、ちょうど道を塞ぐようにして7~8人の男が清掃作業している。
うっかり通り過ぎてしまうところだった。
「石畳はこちらだよ」と声を掛けてくれた。
どこかのボランティアグループがゴミ袋を手にしていた。
そして入り口で全員が記念写真をパチリ。
「滑るから気をつけてね」
「ありがとう」
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雨に濡れて、石が黒くひかる。
日が射す部分と陰になる部分とのコントラストが絵になる。
言われたように、確かに滑りやすい。
慎重にゆっくり進む。
中年の夫婦に出会う。
「こんにちわ」「どうも」のあいさつ。

石畳はかなり整備され、年数も経過して苔が生えていたりもする。
江戸時代はわらじ履きだから滑らなかったのだろうか。
今の靴は滑りやすく相性はよくないようだ。

いっぱい荷を乗せた馬や牛は砂をまきながら石畳を進んだらしい。
泥んこ道よりは歩きやすかったかもしれない。

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峠を上がったところが国境。
美濃から信濃に入る。
「是より北 木曽路」
有名な島崎藤村の碑がある。
ここからいよいよ山の中の旅が始まる。
そういう気分でここから美濃路を振り返る。

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新茶屋がある。
かつては立場であった。
今は2軒の民宿になっている。
ひっそりしている。
江戸時代、この街道が賑わっていた頃は
馬籠の宿役人はここまで西国大名や尾張藩使者を迎えたり、見送ったりしたのだ。
美濃や尾張の経済文化がこのルートで入ってきた。


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ここから道は広くなっている。
濃飛バスが1日3本ある。
しかし観光客らしき人はいない。
静寂につつまれている。
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街道筋にはこうした水飲み場がある。
旅の人への心づかいである。
冷たい水で一息ついたことであろう。
今はあまり生水は飲まなくなった。
ペットボトルのミネラルウォーター世代だ。


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諏訪神社の横に碑がある。
「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルといわれる人
藤村の父・島崎正樹の碑である。

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荒町や馬籠城跡を通る。
「夜明け前」に書かれている地名の配置関係がよくわかる。
歩くことの意味はここにもある。
マイカーでは見落としてしまう目が養われる。

石屋坂は馬籠宿の南入り口にある。
この坂を登ったところが駐車場で観光客でごった返している。
しかし、
不思議にも、ここまでは誰もこない。

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相変わらず、馬籠宿は大勢の人でごった返している。
藤村記念館を中心に歩いて、五平餅やそばを食べて
記念写真を撮って、わいわい雑談して
お土産買ってさっさと帰っていく。

地元はこの現状をどう感じているのかな。
木曽11宿の最南端の宿場町。
しかし、今やこの馬籠は行政的には岐阜県だ。
信州の馬籠ということばが消えていこうとしている。

藤村翁は、このことを知ったら何というだろうか。

槌馬屋資料館に入る。
「夜明け前」関係資料、幕末に近い当時の行政、歴史文献や書がガラスケースに収められている。
貴重な資料らしいが、あまり手が入っていないのか管理状態がよくない。
それに、こういうものは説明者がいるといないとでは格段に違う。
ただ、入館者が少なく台所は苦しいようだから
それもかなわないと思えた。

街道沿いに多くの民宿がある。夜の明かりが灯る馬籠も一度見てみたいものだ。

2006年9月23日 (土)

中仙道を歩く/中津川宿~落合宿(その2)

与坂の立場は坂を登ったところだ。
一息つきたくなるのは今も同じだ。
かつては越前屋という茶屋があって名物餅を食わせたらしい。
今は、この家も静かである。

今度は急な坂道を下る。
国道19号線に突き当たる。
このあたりで少し道に迷う。
標識が分かりにくい。
Uターンするようにして19号線のアンダーパスを潜り抜け反対側に出る。
やや下って橋を渡る。

再び19号線を今度は陸橋を渡るが、橋の北側に神社がある。
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落合五郎兼行の館跡とある。
木曽義仲に武将として仕えた。
小高いところにあり、トイレも完備されているので小休止にはちょうどいい。

おがらん橋を渡る。
いよいよ、落合宿に入ってくる。
下の枡形というところに道標が立っている。
その前にあるのが善昌寺である。

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街道に沿って石垣と白壁が続き、大きな松ノ木が道にせり出している。
まだ、お昼を食べていない。
そういえば、この道筋コンビにはおろか自販機も目につかないくらいなかった。

少し街道をそれて、19号線に出てみるとすぐ近くにサークルKがあった。
お握り2個とお茶を買う。
すぐ手前の信号機は見覚えがある。
この19号をここで右折すると馬籠に行けるはず。
改めて考えると落合宿の位置関係が頭の中で判明した。
車ではこうはいかないだろう。

街道の善昌寺まで再び戻る。
道路をへだてて小公園があった。
イスに座って遅い昼食だ。
どうやらここは元落合村役場跡らしい。

元気を取り戻し歩き始める。

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落合宿の本陣跡があった。
なかなか立派な建物だ。
落合宿は街がわずかである。

かつてJRさわやかウォーキングで歩いたが全く印象が違うように思う。
その時振舞われた「豚汁」を作った千人鍋が飾ってあった。
イベントの賑わいもなく、街の人もまばら。

常夜灯から左折する。
ここが「上の枡形」だ。
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すぐ前の幹線道路を渡り坂道を下る。
落合宿の高札場跡の標識が右手にある。
少し民家が続くがすぐに左折して行くと川に突き当たる。
落合川だ。
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下桁橋を渡る。
山手に滝があり、ドーという轟音とひんやりした水しぶきが凄い。
高いところにある橋は、中央高速道路の赤い橋だ。
いつもは、あの橋から下を見ている。
写真を写していて車が来たのが気がつかなかった。
しばらく止まっていてくれた。
私がやっと気がついて道をよけるとドライバーが軽く手を上げて
にっこりして通過していった。
ちょっとしたことだが気遣いがうれしい。
さあ、いよいよ美濃と信濃の国境、十曲峠に近づいた。
(つづく)

2006年9月18日 (月)

中仙道を歩く/中津川宿~落合宿

前回から1週間後の9月16日土曜日、また中仙道を歩くことにした。
雨の心配があったが決行した。

JR東海が土・休日限定で発売の『青空フリーキップ」を使う。
1枚2500円だ。
中央線は木曽平沢まで一日乗り降りフリーのお得なキップだ。
中津川駅に11時過ぎに着いた。
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江戸・日本橋から45番目の中津川宿から落合宿を抜け
43番目の木曽路・馬籠宿までをめざす気ままな一人旅である。
  
美濃路から山深い木曽路に入る時に覚える緊張感を味わうことが今回の目的のひとつである。
そして、多くの旅人が西から東の向かった。
芭蕉、皇女和宮、赤報隊など
思い思いの心を秘めながら木曽路をめざした。

すでに雨がぱらついている。
難儀な旅になるかもしれない。
しかし、昔の人は雨降りでも嵐でも、雪が降る厳寒の冬でも、炎天下の夏でもふさわしい格好で歩いたのだ。
少々の雨なんか平気さ!という気分でスタート。
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宿の東の茶屋坂

整備された駅前を直進する。
栗きんとんの「すや」を右に見て、アピタ手前の信号を左折し東に進む。
突き当りの坂道には高札場がある。
この「茶屋坂」は中津川宿の東端にあたる。
達筆な定め書きが何枚も掲げてある。
デジカメを持った男が「素晴らしいな!」とシャッターを切る。
そして車で走り去る。
どうやら観光地点だけを写真に記録しているようである。
あちらがピンポイントなら、私は連続した曲線の旅である。

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急坂を登ると幹線道路に出る。
横断すると中津高校だ。
横道に沿ってさらに登ると旭丘公園がある。

芭蕉句碑
片隅に芭蕉の句碑がある。

「山路きてなにやらゆかしすみれ草」

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大垣と芭蕉
すこし話題がそれるが
芭蕉は東海地方に縁が深く、大垣もその中心だった。
何度も大垣を訪れている。
芭蕉は少なくとも江戸から「野ざらし紀行」の帰路と、「更科紀行」の2度、木曽路を通ったようだ。
その都度、大垣には滞在している。
大垣は美濃派の谷木因がいた。

また「奥の細道の結びの地」として大垣・船町に史跡が残っている。
中津川も東濃の商業の中心地、俳句など文化的には進んでいたはず。
芭蕉はそうした地方ファンに頼りつつ旅を続けたのであろう。

     
中山道は、ゆるやかなカーブを描きながら東に進む。
しゃれた黄色っぽい石を混ぜたカラー舗装が続く。
携帯用傘をさしながら小雨のなか、街道を歩くのも悪くない。

国道19号線をくぐって緩やかな坂道を歩く。
大型トラックが轟音をたてて通り抜けていく。

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道沿いに農家が点在し静かなたたずまいを見せている。
常夜灯が何気なくあるとほっとする。
小雨に濡れて光る路面は風景をしっとりさせる効果がある。

子野(この)石仏群
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庚申塔、石仏などさまざまな石造物がならんでいる。
枝垂桜の老木がある。
旅の途中で息途絶えた人もいるだろう。
まさに人生は旅。
そっと手を合わせた。

与坂の立場跡
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坂道が続き、ゆるいカーブを登って行く。
小高いところに民家が両側に立ち並んでいる。
ひときわ古いが立派な建屋が目に付く。
与坂の立場跡の標識があった。(次に続く。)


2006年9月17日 (日)

中仙道を歩く/中津川宿~大井宿

中津川宿から西へ

この頃、運動不足だ。体力は足腰から衰える、という。
じゃ、というわけでもないが、久しぶりに歩いてみた。
9月9日土曜日、青春18キップを使用して中央線中津川行きに乗る。
セントラルライナーは310円が別に必要だ。
多治見からは不要という変則的なものだ。
だから、車内はガラガラ。
JR東海の「秋のさわやかウォーキング」も始まって、常連さんはそちらへお出かけらしい。
お昼前に中津川駅に着く。
駅の左手にある観光案内所でパンフをいただく。
歩く人が増え、どの自治体も観光に力を入れている。
そのせいかパンフが行く種類もあり、しかもデザインや写真がきれいだ。
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駅近くの店「おふくろ」で五平餅の昼食をとる。
ここはみたらし団子の形のもので3つが串に刺してある。
五平餅5本と漬物がついて577円なり。
甘さは控えめ。
焼き立てでうまい。「ハフハフ」しながらお茶を飲んで食べる。
商店街をぶらつきながら西に向かう。
街がのんびりしている。
人もほとんどいない。
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四つ目川を渡る。
何度も水害で川筋が変わった。
四つ目が今のここの川らしい。

中津川は歴史資料の宝庫
中津川市中仙道歴史資料館に入る。
常設展「激動の幕末から明治維新へ」、特別展「付知村 田口家展」
文書・画が主に展示されている。
特に幕末期の中津川をめぐるさまざまな動きは時代が確実に変わり始めていることが伝わってくる。
皇女和宮の降嫁、天狗党の西進、赤報隊の進軍など中山道の宿場は何かと動きが大きく、当時の人がどういう対応をしたのか興味深い。

資料館を出て進むとやがて枡形に突き当たる。そこに栗きんとんの「川上屋」本店がある。銘菓「栗きんとん」は中津川が発祥の地だそうである。
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さらに西に向かって歩いていくと大きな川だ。
これが中津川だ。かつては川上川と呼んでいたとか。

西に向かうと小高い壁に突き当たる。
石屋坂である。馬頭観音などの石柱がある。
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私の住む西美濃にも馬頭観音は数多くあるが、こうした石仏はあまり見られない。
地方によりさまざまな祭りかたがあるのだろう。
坂を上がって曲がりくねった道を行く。
久しぶりの歩きで体全体が苦しい。
まだ、本格的にエンジンがかかっていない。
引き返すことも考えたが、少し辛抱してみる。
それにしても昔の人は丈夫だったと思う。
旅をすることは自分で歩くしかないのだ。
ひたすら歩き続けるしかない。
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上宿の「一里塚」跡があった。
榎など植えて木陰をつくる。
ここで旅人は小休止したのだ。

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このあたりの旧街道は、車もあまり通行しないので比較的歩きやすい。
それに案内板が適切に建ててあるので道に迷うことはない。
国道19号線にぶつかり中央高速道中津川インターの進入道路で中山道は突然消えた。
案内地図をみて迂回する。
近くをJR中央線が走っている。
美濃坂本駅はこの先だ。
すっかり秋で稲が黄金色に輝く。
一番豊かな季節だ。
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そして農家は忙しい季節だ。
機械化でどこでもコンバインが活躍している。
そして軽トラで収穫された米を運ぶ。
あたりののんびりした風景を見ながら歩くと楽しい。
時々、史跡案内板がかつての街道の様子を伝えている。
「立場跡」はかつての茶屋などがあった休憩所のこと。
「常夜灯」も街道には欠かせない。
夜になってしまい心細い旅人が常夜灯の明かりを見つけてほっとしたことだろう。
今の時代はともかく闇というものがなくなった。
自販機、街路灯、民家も点在して怖い場所もほとんどない。
ナイトウォーキングでもそれほど困難ではない。

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「白木改番所跡」というのは、中仙道独特のものだろうか。
木曽五木は「木ひとつ、首ひとつ」といわれ持ち出しはご法度。
大木の運搬は木曽川を利用するが、小さな木は街道を運んだ。
そこで厳重に持ち出すことを禁じた尾張藩が厳しく取り締まった関所がこれだ。
馬籠峠付近にも存在していた。

茄子川の町に入ると大きな庄屋屋敷がある。
「明治天皇茄子川御小休(こやすみ)所」という石碑がある。
明治天皇が巡幸の折、ここで一休みしたということだ。
なぜ石碑まで建てたのか。名誉の誇示か。
それもあるがそれだけではない。
江戸の封建時代から明治国家に変わるとき、政府は天皇をいかに人民に「見せる」かに苦慮した末に全国を回り、意図的に天皇が最高権力者ということを知らしめたのだ。
明治5年から6回にわたり全国を巡幸している。
この中山道は第4回目にあたり、明治13年6月東京を出発し、甲府、松本、木曽路を抜け名古屋、大阪をたどるコースで7月23日まで費やしている。
政情不安のなか、政府首脳や護衛の巡査も随行しての大集団の移動だった。
迎える地元もさぞ大変だっただろう、と思う。
しかしどこも大勢の人が熱狂的に出迎えたという。

 大井宿へ入る

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中津川市から恵那市に入る。
道路沿いに栗の木がある。
さすが本場だ。
焼き栗、ゆで栗、栗ごはん、栗ようかん。
何でも美味そうだ。
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甚平坂をカーブしていくと恵那の町は近いぞ。
昔はもっときつい坂だったらしい。
が、明治天皇の馬車が通られるということで地元が総出で坂をなだらかに作り変えたとも言われる。
まあ、今でも天皇陛下がご訪問となるといろいろ直すもんね。
時代は変わっても一緒かな。
下呂温泉の水明館のお手伝いさんから聞いたことがある。
天皇が宿泊される半年以上も前から警察や保健所など大変厳しい監視体制が続くらしい。

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いきなり、眼下に恵那の町並みが見えた。
旅人はこんな風景を見て、どう感じたのだろう。
今の車時代と違い、歩き続けた結果、「着いた!」といううれしさは表現できないくらいだったのかもしれない。
やはり、歩いてみると本当に感動する。
車で10分程度、電車で2駅なのに、2時間も3時間もかかって歩くのだから。
その喜びは歩いた人のみが感じることができるのだ。
大井宿、今の恵那市はこれまた魅力ある町並みであった。
いたるところに江戸の面影がある。
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そしてここにも明治天皇の石碑が建っていた。

中津川宿から大井(恵那市)宿まで10キロ程度だがなかなか味わいのある歴史の道であった。

2006年9月 7日 (木)

臭い仲

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もう去年からあるんです。
鍵ですよ。
ずーと掛けたままなので、気になってます。

ひよっとして
新潟県柏崎にある「恋人岬」にあやかってるんじゃないだろうね?

カップルで柵に鍵を掛けると将来幸せになれる、っていうあれ。
いまじゃ観光スポットになってるらしい。

ま、まさか~、これは!
でも、ここは男子トイレですよ!
エー!男色!
エライ臭い仲ではないか。
トイレの管理人さん、何とかして~
(岐阜県大垣市)

2006年9月 6日 (水)

偽ポスト

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実はこの門の左に郵便受けはあるんですよ。
けど、郵便屋も隣の回覧板もここへ入れようとするらしい。
で、守衛さんが、いつも困っていたらしい。
どうみてもこりゃポストだよね。

で、社長さんに相談して決めたの。
「ポストは左」って書いとけ!

これじゃトイレにある「左を見て」「上を見て」「下を見て」「後ろ見て」
そして後ろを見ると
「キョロキョロするな!」
って書いてあるイタズラ書きと同じだよ。

しかし、堂々と書くところが笑えるね。
(名古屋市緑区鳴海町)

悩める無用空間

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新幹線・広島駅の階段だ。
広い階段が、途中で半分になっている。
下の部分はコンクリートの壁が立ちはだかっている。
パチンコ球で実験しなくても、ここで当然大渋滞が発生する。
危険だ、というわけでフェンスを作った。
その結果生まれたのが左半分の無用空間。
もう半永久的に利用されないのだろうか。

これは設計ミスか、それとも勘違いか。
ホーム階段担当と下の通路担当が仲違いした結果なのか。

今日も無用空間は悩みながら通行人を見つめている。
いつか有用となる日々を夢見ている。
がんばれ!無用くん。
(広島市)

2006年9月 5日 (火)

巨大モリゾー軍団登場!

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巨大なモリゾーが、ついに広島にあらわる!
しかも、4つも!
原爆で破壊され焦土となったこの地を
モリゾーが訪問したのじゃろう。

世界に向かってゆうておるぞ。
ノーモアヒロシマ、ユーモアモリゾー。
(広島市平和記念公園)

2006年9月 3日 (日)

人気過剰の無用門

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この扉はつい半年ほど前まで通行できた。
JR大垣駅の北口にある階段の横にある扉で外は駅の時間貸し駐車場だ。
この駐車場からは、この扉を通ると早くてとても便利だった。

いつしかこの扉の通行が増えた。
JRが思いもしなかった通行人が急増した。
この先にある自転車駐輪場への人、特に高校生だ。

イヤーまいったな。
ある日、扉が打ち付けられ開かずの扉となってしまった。
駐車場を歩くので危険と判断したのだろうか。

ともかく、人気があってもこんな仕打ちが待っているんだ。
人生も一緒さ、という教訓。
高校生も身をもって勉強してくれたかな。

今でも、久しぶりに北口に来た人が、この扉を押しているのをみかける。
いつの日か、無用門が再び活躍している姿をみられるのだろうか。

2006年9月 2日 (土)

ジジババ徳山村物語を聞く

大西暢夫写真展&トーク

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徳山ダムで水没する旧徳山村を撮り続けた写真家、大西暢夫さんの写真展に行った。
『僕の村の宝物・ジジババ徳山村物語』という。
大垣市のスイトピアセンターで9月1~3日まで開催されている。
今日・2日は大西さんのトークもある。

大西さんは揖斐郡池田町の出身。
現在はさいたま市に住んでいる、フリーのカメラマン。
徳山村で15年にわたり村の人の生活を撮っている。
著書に「僕の村の宝物・ダムに沈む徳山村 山村生活記」や
「ひとりひとりの人・僕が撮った精神科病棟」などがある。

会場は中高年者がほとんどで、言葉を聞いていると多分西美濃地方の人が多い。
お互いにあいさつしている旧徳山の人もいるようだ。
写真展の会場にイスが並べられ200人ぐらいが集まっている。
大西さんは38歳で、ひげを少し生やしたやさしくてシャイな感じがする。
先ほどまで会場でいろいろ手伝っていた人だ。

マイクを手にして話が始まった。
「私が東京から初めて徳山に来たとき、自分は何もできなかった。
おばあちゃんに、ちょっと、火、付けといて、と言われても便利な電気の生活に
慣れているものにとって、火を焚きつけることさえできなかったのです。」

「同じ揖斐郡に住んでいたのに徳山のことはほとんど知らなかった。
子供の頃、日本一のダムができることに喜んだことさえあった。ダムで有名になると」

「増山たづさんに、ある夫婦を紹介してもらい、それから長い付き合いが始まったのです。
山菜や栃の実を採ったり、川へ行ったり、いろりで昔話を聞いたりして、山の生活は、本当に楽しいし、自然も豊かです。
徳山の人は本当に何でも知っています。
私も楽しくて仕方がなかったんです。
いろいろなことを教えてもらいました。
しかし、いよいよ9月から湛水試験が始まります。私たちももう入ることができません。」

とつとつと話がされる。
言葉ひとつひとつをかみ締めながらゆっくり。
「さて、今日は特別ゲストで徳山の人3人に来てもらっているので昔の徳山の思い出など話していただきます。」との声で会場に3人が拍手の中、登場された。

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小西さん夫婦、と広瀬ゆきえさんの3人。
ゆきえさんは今朝早く徳山村から出て来たという。リュック姿だ。
小西政治郎さんは移転先の本巣から来られた。

小西政治郎さんは大正10年生まれで86歳だというが元気もりもりで顔つやがいい。
大西さんが何でも話してくださってけっこうですから、というとマイクを握り締めて

「本日は、お忙しいところ、大西さんの写真展に来ていただき誠に・・・」と固いあいさつをされ会場から笑いがもれる。
しかし、これが精一杯の感謝の表現だと思う。
小西さんにとって、大西さんは自分の孫のように可愛いのだ。

「徳山は遺跡調査でも、縄文時代から生活していたらしいということです。
関ヶ原後も、9千石で8カ村あって地区の境がはっきりと木で分けてありました。」

「マムシのことかな。そりゃ今でもとらまえると持ってきてくれますので酒にして飲んどりますわ。あれは、カルシウムがたんと入っとるでな。
おかげで健康で今でも車にも乗っとります。

移転先の裏山に竹がぎょうさんあって管理を任されとります。それで竹炭を焼いてましてな欲しいいう人にあげてますわ。部屋に置くと空気が浄化されていいらしいです。みなさんよかったら私んどころにいつでもゆうてください。」(会場から笑い)

「栃の実ですか?それを食べんと年が越せんいうほど楽しみなもんです。しかしアクを抜くのに手間が随分かかりますわ。昔の人は、よう考えましたな。」

「70年くらい前は、縄文人のような生活でしたな。電気も何にもない。はじめてバスというもんを見たのは13歳でした。山を歩いて、長浜?へ行きました。大きな倉庫のようなものがきたので逃げましたら、あれがバスだと言われびっくりしました。」

「みなさんは、よう徳山御殿なんていいますが移転してから私の地区から6軒もの家がどこかへ行ってしまって行方不明ですわ。ローンだとが原因です。徳山にいた頃はそんな家は1軒もありませんでしたな。」
小西さんの話は、大げさでもなく、しみじみと昔のこと、今の思いを正直に出され胸に伝わる。

こうした写真展を長野で開催したとき、
会場の若い女性が「主食は何ですか」と聞かれ
「米じゃ!」と答えたそうである。
大西さんは徳山に住む人を人間扱いしていない、と笑いながらも
このギャップを嘆いておられた。

広瀬ゆきえさんは、門入地区に今でも住んでいる?人で、元気なおばあさんだ。
夫の司さんが亡くなってからずーと一人でくらしている。
大西さんはこの人と囲炉裏に入って昔の話を聞くのがたまらなく楽しかったという。

「昔は道がなかったな。ホハレ峠を通って川上(坂内村)に抜けた。娘時分に栃板を4貫担いでいくと50銭もらえた。そりゃ楽しみだったよ。
その中に、いい男はいなかったな。アハハ・・」

夫、司さんとのなれそめについて聞かれ
「親戚どうしで決めた人で、顔も何にもしらなんだ。北海道の人で、それで北海道の
真狩村、そうそう細川たかしの出身の村、へ嫁に行きました。
12年くらいいましたが、また戻ってきたんです。親戚で跡取りがおらんでなあ。
昔は、ここからも開拓で北海道へ行っていたようですな。」

はつえさんは、思い出しながら懐かしそうに話をされる。
ゲストからそのほか、栃の実が食べられるまでの作業などあって拍手の中、退場された。

大西さんの話は、最後に次のように話を締めくくられた。
「今まで、何年も徳山の人と話をしてきたが、ダムについて1度も話したことがなかったのです。
タイミングがつかめなかったこともあります。
蛇口をひねると水が出るし、便利な電気の生活、そして治水と、豊かな生活を維持するためにはダムが必要かもしれません。
でも1500人もの村の生活と便利さとを天秤にかけたときダムのほうが重いのか。
どうなんだろうか、と考えます。
『老木を引き抜いて、新しいところに植え替えてもはたしてうまく根付くだろうか?』
こんな疑問がしました。
古くからずーと続いた村が僕達の時代で壊してしまっていいのだろうか。
ずーと先まで心残りになっていきはしないだろうか。
こんなことを頭の片隅に留めておいて欲しいと思います」


20069
会場にある82点のモノクロ写真。
自然と暮らす徳山の人、移転準備のようす。

特に、ひときわ私を引き付けたものはこの写真である。
明日、家が取り壊される。
がらんとした囲炉裏の前でひとり座るおばあさん。
まるで武士が切腹を覚悟したときのような
鬼気迫る姿には、万感の想いが伝わってくる。
人生が、慣れ親しんだ風景が、世話になった生活の臭いがしみ込んだ家が消える。

1枚の写真が訴える意味の重さを強く感じた。




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