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2006年8月26日 (土)

周防大島の旅(6)

戦艦陸奥記念館

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周防大島文化センターから東へ国道437号線が走る。
ちょうど金魚の形の尻尾にあたる島の東端に伊保田という町がある。
この伊保田港から四国・松山を結ぶ航路が開かれている。
また、センター近くの平野というところから右折して南下し県道60号線を進むと沖家室島だ。
島の広さを確かめたいということもあってとりあえず海岸線を伊保田に向かう。
民家がまばらにあるが人の姿がほとんど見えない。

伊保田に着く少し手前に突き出た岬に「戦艦陸奥記念館」がある。

この岬から見える桂島沖で戦艦陸奥がなぞの爆発を起こし2分後に沈没した。
昭和18年6月8日のことである。
殉職1121名。

一時期、戦艦陸奥は日本海軍の世界に誇る戦艦であった。
しかし、やがて航空機時代になり役目も少なくなったときの爆沈だった。
事故説、故意説などあったが真相はうやむや。
昭和45年から引き揚げられこの記念館に展示保存されるようになった。

入館料420円を払い入る。
夏休みでも人がまばらだ。
台風の影響もあるが、ここまでは遠すぎる。
軍服、日本刀、愛読書、ノート、ペンなどが陳列されている。
遺品の数々は当時の状況をよく表わしているが、理解できないかもしれない。
戦争はいかに多くの犠牲者と親族の嘆き哀しみを出すかが分かる。
人の扱いは将棋の駒以下。
今、例えば幼児殺人事件が起きるとあれこれと死をめぐってマスコミの報道が過熱する。
たった一人の死でも命の重さについて繰り返す。

戦争はどうか。
死が日常化してした。
戦艦陸奥が沈没した当時どう報道されたか。
たぶん軍事機密でかなり抑制された発表だったろうと推測される。

ところで、宮本は昭和2年、短期現役兵として約5ヶ月間大阪の第8連隊に入営している。
生家に日記が残っているらしい。
彼は病弱で、体格も恵まれていなかった。
軍事教練も苦手で「手榴弾の投げかた」も下手くそだったと書いている。

宮本にとっても戦争には何よりも手痛い仕打ちを受けている。
敗北が近くなった頃、旅先では「スパイ、スパイ」と子供たちから石を投げられた。
旅そのものがもはや困難となる。
そして、昭和20年の敗戦まで歩きに歩いて得た貴重な旅の取材ノートは7月9日の堺市の大空襲によってすべて灰燼に帰してしまった。
戦争に対し宮本はどう感じていたか。
国家というものはあまりにも大きい。

経験者の死とともに薄れていく戦争の記憶。
周防大島の旅が宮本のふるさとに触れることだったが、この大島でも生活の中に哀しい戦争の爪跡が残っており、けっして避けて通れないということを思い知ったのである。
(以下 次号)


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