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2006年8月30日 (水)

周防大島の旅(10)

 私の中の宮本常一

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久賀の町は、すごい雨が降り続いている。
天気が良ければ穏やかな瀬戸内の海が見られたであろう。
台風の動きは依然はっきりしない。
いよいよ戻らねばならない。
まだまだ行きたい所はあるが、またの来訪までとっておこう。

国道からはずれ、旧道筋にある小さな商店街をゆっくり走らせる。
名菓「みかん最中」を製造する和菓子屋がないか。
しかし、土砂降りのなかでは見つけるのも困難だ。

ところで、みかんは宮本にとっても縁が深いのだ。

「父・善十郎が村で始めてみかんを植えた。
私はその後それを奨励したため、ほとんどの田がみかん畑にかわった。
しかし、生産が拡がるとみかんが値崩れをし、農家は食べていけなくなった。
私は大変困った。
そんな中でも、私(常一)の息子はのちに農家の跡を継いでくれた。
そしてこれまでの温習みかんの枝を切り、
毎年すこしづつハッサクなどに品種を転換した。
いろいろと一生懸命に努力している。
しかし、これを指導してくれる人がいない。
これは、今どこでも問題なんです。
地方が豊かになるには補助金を打てばいいというものではないのです。
地元の自主性と豊かな知識を持った指導者、それを資金援助するシステムが必要です」

昭和54年の中央省庁の講演会で宮本はこのような趣旨の話をしている。(炉辺夜話)
現在ははたしてどうなっているのかは分からない。

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大島大橋のたもとの店で「みかん最中」をやっと手に入れた。
雨はすこし小降りになっている。

大橋を渡り周防大島に別れを告げた。

宮本は、73年の生涯に合計16万キロ歩き続けたという。
日本列島に足跡を赤インクでたどると日本列島は真っ赤になる(渋沢敬三氏)といわれた。

ということは、西美濃へも来ているはずだ。
確か、揖斐の奥の八草峠から滋賀県の木本へ抜けた話をどこかで見たが思い出せなかった。

後日、調べると宮本常一の研究家、ノンフィクションライター佐野真一の書「旅する巨人」でこう書いてあった。

「・・・さて私11日夜9時40分の汽車にて東京をたち、12日朝6時10分大垣着、そこより支線を揖斐まで乗って、揖斐からバスにて廣瀬に行きました。バスは1日に2回かよっており、八里の道中を歩かなくてすんだのは仕合わせでした。(中略)

・・・峠の1里ほど手前から雨になり、きっと晴れるだろうと思って峠の途中の炭小屋で雨を避け、苫があったからそれを敷いて2時間ほど寝ました。
峠近くから土砂降りになり、峠の上までは草が刈りあけてあってよかったのでございましたが、両側は全く雑草の繁ったまま、それが背丈ほどにのびてゐ、所々は雪害のために道が崩れてしまって居り、実に大変な道なのでございます。
その道を雨の中を行くので、全くずぶぬれになり、その上ころんだり滑ったりと散々、引きかへすのも馬鹿臭く、いささか無理をして近江に下りました。(中略)

・・・『無理をするな』とのお言葉でございましたが、別に無理をしようとは思わずして、無理になってしまひました。」

これは、昭和16年8月、宮本が旅先から渋沢敬三に宛てて送った手紙の一部である。

揖斐川から坂内村に入り八草峠あたりを超え木本町に抜けたのだ。
今では、八草峠もトンネルが開通し車で楽に峠越えができるようになった。

戦前でなくても、ついこの前までは大変な難所であった。
宮本という人の凄さはこんなところにも出ているのだ。

宮本がこの西美濃に来て、どのようなことを聞き、なにを残していったのだろうか。
まだ宮本の残した調査・研究の成果が手付かずの状態なのが相当あるという。

とくに宮本が写した写真はふるさとの貴重な財産である。
私にとって、今回の周防大島の旅は、宮本常一の魅力を肌で感じとるに充分だった。
台風の襲来というアクシデントもまた、今回の旅をさらに印象的にさせるものであった。

もう一度、行ってみたいし、今度はぜひともリュック姿で歩いてみたいものである。

(完)

2006年8月29日 (火)

周防大島の旅(9)

久賀歴史民俗資料館 

雨が降り続く中、ハワイ移民資料館を出て屋代という地区を走る。
古い民家や商店などがたち並んだ街道で、天気がよければ歩きたくなる街だ。
しかし人がいない。

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周防大島でもこの地区は比較的発展しているように見える。
深くえぐられた湾には養魚場が造られ少しは活気がみられる。
町役場ではいま「地産地消」運動を起こしている。新鮮で安全な地元産の野菜や鮮魚をできるだけ地元で消費するというものだ。
今や全国的に大型スーパーがこうした地域の経済を破壊する元凶になっている。
便利な生活は確かに魅力だが、このままでは安全を脅かされることになる。
 横殴りの強い雨がフロントにたたきつける。時間はお昼を過ぎている。
食堂やレストランは見当たらない。
国道に戻り昨日の道を再び走る。
西三蒲というところにコンビにがあった。「7イレブン」である。
おにぎりを買って車で軽い食事をとる。

再び車をスタートさせ、とにかく久賀町まで行ってみることにした。

宮本は6歳の頃、祖父に三蒲の日限地蔵に連れられていったことがある。
家のある西方から16キロもあるところを歩いたのである。
途中、久賀を通ったがこんな大きな町を見たのは初めてだった。
菓子もみやげも買ってもらえなったが、弁当や水を飲んだことは覚えている。
長い道を一人の幼児をたのしませながら歩かせた祖父は素晴らしい人だった。

その久賀には歴史民俗資料館がある。
雨にずぶぬれになりながら資料館に行くと、戸が閉まっている。
ブザーを押すとどこからか若い職員がやってきた。
こんな台風のなか来る人もいるんだ、というような顔をされた。
まあ、そうだろう。
入館料400円を払う。
いきなり民具がずらりと並び圧倒される。
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宮本が10歳くらいのとき、父・善十郎に連れられ久賀へ大相撲を見に行ったことがある。
久賀には伊藤という旧家があり、造り酒屋であった。この家の主人が相撲興行をした。
ひいきの横綱が常陸山で酒も常陸山だったという。
上の写真にも相撲取りの手形が展示されていたりして、かつて久賀が発展していたのがよく分かる。

ところで、この資料館は、宮本の指導を受けながら久賀町が町民に呼びかけ収集し整備保存展示したものである。
とくに優れているのは石工、鍛冶屋、傘、提灯屋、醤油屋、瓦屋など9職種の用具類2700点あまりが国の重要有形民俗文化財に指定されていることだ。
別棟の用具収蔵庫にある、背丈をはるかに越す、醤油屋の六尺桶が十数個も並んでいるのは圧巻だ。
これらをひとつひとつ見ていると、人の道具に対する改良、創意工夫がどうしてこれほど湧き上がってくるのか不思議でならない。
職人という庶民が成した技術・技能を営々と引き継がれて、こうした素晴らしい道具が生まれたのだろう。

まさしく、パンフにうたうように「町衆文化の薫る郷」であり、『明日へ造り育てる生活の知恵袋』でもある。
これこそ宮本常一が故郷の人々に伝えたかったことではないか。
(以下 次号)

2006年8月27日 (日)

周防大島の旅(8)

日本ハワイ移民資料館

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第1日目の旅を何とか無事終えて広島のホテルに戻ったのは7時を過ぎていた。
駅前のホテルから中心部へ食事に出かけた。
広島市内には路面電車が走っている。
紙屋町で下車し、名物の広島焼きというお好み焼き屋に入った。
ビルの中にお好み焼きの屋台が並んでいるようなものだ。
そばが入ったお好み焼きはオタフクソースのたれがたっぷり。
ビールを飲んでお好みを食べるが、少食の私には食べきれない。
さらにドライブの疲れとで一気に睡魔が襲う。

ホテルに戻り、何とか風呂に入りバタンキューだ。

あくる朝、目が覚めると同時にNHKニュースを見る。
台風は昨日から動きが鈍くまだ九州にいるという。
レンタカーはすでに予約してある。
いまさら、別のところへいく気も起きない。
ともかく、行けるところまで行って判断することにした。

山陽自動車道を南下する。天候のせいか交通量は少なめだ。
トンネルを抜けると突風が時々吹き付ける。

玖珂ICを下車して国道437号を走る。
大島方向の空は黒い雨雲で覆われている。
大畠に着き、大島大橋を渡る。
信号を右折し海岸線に沿って進むとやや開けた平地に出る。
平成16年10月1日、大島にある4つの町、すなわち久賀町、大島町、橘町、東和町が合併し新たに周防大島町として発足した。
ここはその旧・大島町であたる。

雨がかなり激しく吹きつけてくる。
めざすは「日本ハワイ移民資料館」である。
なぜここにそのような資料館があるのか分からなかった。
私のイメージする移民はハワイでなく南米である。

小さな案内標識を頼りに進むと田畑が広がる農村に入り迷いながらやっとのことで着いた村の中に館があった。
フロントガラスにバシャバシャと激しい雨が当たりやっとのことで建物に入った。

資料館といっても木造の和風民家である。
玄関に入るとアロハシャツのふくよかな初老の男性が迎えてくれた。
先客が一組あり、近くに住む親子連れがノートを見ていた。

入館料400円を払うとまずこの資料館のことを少し紹介してくれた。

この建物の持ち主はハワイ移民ではなく、アメリカ本土で成功し財を成した人が帰国して建てたものらしい。
ハワイ移民は明治時代から始まっていた。1881年(明治14年)にハワイ国王が最初の
元首として来日、移民の要請があった。これを受けて政府が正式に募集をかけた。
このとき予定の600人を超える28000人以上の応募があった。
この第1回「官民移民」に何と全体の約3分の1を山口県大島郡出身者が占めていたのである。

そして明治27年の第26回まで全国で約29000人、そのうち山口県10400人、大島郡だけで3900人もの人がハワイに渡った。
こうして大島郡は「移民の島」と呼ばれるようになった。ハワイではサトウキビ畑の過酷な労働が待っていた。
しかし、勇気とたくましさにより新しい社会を築いていったのだ。
大島では貧しくて生活できず、船乗りや大工など出稼ぎや移民といった手段で新天地へ出て行ったのである。
その中で多くは挫折してしまうが努力して成功した人もいたであろう。
この資料館に展示されている大型行李、スプーン、鍋、釜の類も当時の暮しもよく分かる。
宮本の父、善十郎も明治27年にフィジー島へ渡ったが失敗して命からがら帰国している。そうした失敗した経験が多くのことを学ぶことにつながった。
人間だれしも同じ時間があるが、それをどう使うかで人の一生が決まる。それを自分にとって最も価値のあるようにつかう事が大切だと教えるのである。

いまハワイは「常夏の島」として気軽な海外旅行として多くの日本人が出かけているがこの事実を知るものは少ないのではないか。

ハワイ州の全人口は約115万人。そのうちの約22%が日系アメリカ人であるとのこと。
移民のことを知らない三世、四世の代になり日本語も話せない人も増えているとか。

強い雨がガラス窓をたたく。
移民者が鍬を持ち、パナマ帽をかむって堂々とした態度で並ぶ記念写真をみていると
生きることに対する精一杯の闘志と気概が伝わってくる。
(以下 次号)

周防大島の旅(7)

沖家室島のこと

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沖家室(カムロ)島は今年「開島400年」を迎えた。
中国新聞の1月4日の記事を抜粋する。

「周囲4キロ、面積0.95平方キロ。周防大島町の東南端に浮かぶ沖家室島は今年開島400年を迎えた。地元に残る記録では戦国時代まで伊予の水軍で知られた河野氏の家臣が1606年海を渡り定住。以来、海上交通の要衝となり、江戸時代、瀬戸内屈指の漁村として栄えた。明治期に人口は3000人を超え、ハワイや台湾、韓国などに移民を送り込んだ。
戦後は高度経済成長のあおりを受け、島の過疎化が進む。現在は131世帯、189人が暮らし、高齢化率は73%を超す。」


 文化交流センターに展示してある一本釣り漁船は家室船と呼ばれ瀬戸内はもとより台湾、ハワイにまで出漁していたものだし家室針と呼ばれる釣り針も播州などから技術者が来て専門の釣り針製造の産地ともなった。
島は海によって閉ざされているのではなく、どこにでも繋がっており行くことができる進取性を持っていた。

この島にも宮本が大きく関わっている。昭和58年に全長590メートル沖家室大橋が完成した。30年以上にわたる島民の運動に加え、離島振興に国や県を動かし実現したのだ。
しかし、完成の2年前に宮本は亡くなった。

開通当時の人口は約450人というから過疎化はとまらなかった。
だが橋がなかったら無人島になっていたかも、と島の人は言う。

島の3分の1、約60人が年寄り。しかしお互いに食事など助け合って生活している。
都会に住む息子らが説得しても島を離れようとはしない。

毎年、お盆になると約千人の帰省があり島が大いに賑わう。
に沈む島」と呼ばれる所以である。

日本人を考えてみる。
故郷とは一体なんだろう。
毎年、盆正月になると都会から多くの帰省客がふるさとをめざす。
新幹線も高速道路も大渋滞だ。
それでも帰りたいという気持ちは何だろう。
押さえがたい望郷の念。
親や幼友達に会えるだけの理由だろうか。
田舎の不自由さや窮屈な人間関係そして何より働けないという経済的な理由で飛び出していったのではないのか。

離島や山村がますます老齢化し、村そのものが存続できない現実もある。
消滅する村が増える。
地方が危機だ。東京ばかりが増殖していくシステム。
このままでは、盆正月に帰るふるさともなくなる。

今回の旅はこの小さな島にも行ってみたいと思っていたが台風の襲来で断念し
勇気ある撤退となった。
(以下 次号)

2006年8月26日 (土)

周防大島の旅(6)

戦艦陸奥記念館

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周防大島文化センターから東へ国道437号線が走る。
ちょうど金魚の形の尻尾にあたる島の東端に伊保田という町がある。
この伊保田港から四国・松山を結ぶ航路が開かれている。
また、センター近くの平野というところから右折して南下し県道60号線を進むと沖家室島だ。
島の広さを確かめたいということもあってとりあえず海岸線を伊保田に向かう。
民家がまばらにあるが人の姿がほとんど見えない。

伊保田に着く少し手前に突き出た岬に「戦艦陸奥記念館」がある。

この岬から見える桂島沖で戦艦陸奥がなぞの爆発を起こし2分後に沈没した。
昭和18年6月8日のことである。
殉職1121名。

一時期、戦艦陸奥は日本海軍の世界に誇る戦艦であった。
しかし、やがて航空機時代になり役目も少なくなったときの爆沈だった。
事故説、故意説などあったが真相はうやむや。
昭和45年から引き揚げられこの記念館に展示保存されるようになった。

入館料420円を払い入る。
夏休みでも人がまばらだ。
台風の影響もあるが、ここまでは遠すぎる。
軍服、日本刀、愛読書、ノート、ペンなどが陳列されている。
遺品の数々は当時の状況をよく表わしているが、理解できないかもしれない。
戦争はいかに多くの犠牲者と親族の嘆き哀しみを出すかが分かる。
人の扱いは将棋の駒以下。
今、例えば幼児殺人事件が起きるとあれこれと死をめぐってマスコミの報道が過熱する。
たった一人の死でも命の重さについて繰り返す。

戦争はどうか。
死が日常化してした。
戦艦陸奥が沈没した当時どう報道されたか。
たぶん軍事機密でかなり抑制された発表だったろうと推測される。

ところで、宮本は昭和2年、短期現役兵として約5ヶ月間大阪の第8連隊に入営している。
生家に日記が残っているらしい。
彼は病弱で、体格も恵まれていなかった。
軍事教練も苦手で「手榴弾の投げかた」も下手くそだったと書いている。

宮本にとっても戦争には何よりも手痛い仕打ちを受けている。
敗北が近くなった頃、旅先では「スパイ、スパイ」と子供たちから石を投げられた。
旅そのものがもはや困難となる。
そして、昭和20年の敗戦まで歩きに歩いて得た貴重な旅の取材ノートは7月9日の堺市の大空襲によってすべて灰燼に帰してしまった。
戦争に対し宮本はどう感じていたか。
国家というものはあまりにも大きい。

経験者の死とともに薄れていく戦争の記憶。
周防大島の旅が宮本のふるさとに触れることだったが、この大島でも生活の中に哀しい戦争の爪跡が残っており、けっして避けて通れないということを思い知ったのである。
(以下 次号)


周防大島の旅(5)

写真を撮る

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文化交流センターの受付で若い女性職員に尋ねた。
「宮本さんの生家はどのあたりですか?」
やや、沈黙があって
「ご子孫が住んでおられますのでお教えできません。スミマセン」
「あそうですか。住んでおられればご迷惑ですね。わかりました」

確かに私が間違っていた。
聞くべきではなかった。

ただ宮本がなつかしく語るふるさとの風景、神社や道や山がどのようなものだったのか一度見ておきたかった。そして祖父や父、母、宮本自身の生き方を育んだ郷土を少しでも歩いてみたいと思ったのだ。

東和町西方に生まれた常一は16歳で大阪に出るまでこの地に住み、祖父や父と百姓をしたり魚を採ったりの生活をした。
祖父・市五郎に10歳になる頃まで育てられた。夜になると祖父から童謡や民謡、昔話を数限りなく聞いた。
そのことがいつまでも常一の心に深く関わりを持った。

また、父・善十郎は貧乏のどん底にあったため、フィジーへ出稼ぎに行ったり、田畑に何でも植えつけたりする一方突然旅に出かけたりした。小学校もろくにいけなかった父だが多くの人から聞いた知識の蓄積で不思議なほど物知りだった。
物の見方などじつに多くのことを教えてもらったのだった。

ある冬、父に連れられて家のすぐ南にある白木山へ薪をとりにいった。
頂上から見える中国、四国の山々、海にうかぶ島々の一つ一つについて話してくれる。
どうしてこれだけの知識をどこで得たのだろうかと思うほどよく知っていた。
そして常一の夢を大いにかきたててくれたのである。

父から話された10カ条の話のなかに

(2)村でも町でも新しく訪ねていったところはかならず高いところへ上がってみよ。
  そして、方向を知り、目立つものを見よ。
  峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず
  見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。
  そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいってみることだ。
  高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

 この教えは現在でも充分通用する。カーナビなどより余程確かなものだ。私自身も例えば城下町などへ行けば天守に登ったり、高いビルから街のおよその配置を頭に入れたりする。こうすればそれほど間違いはおきない。

  センターの女子職員に白木山への道を尋ねたところ、道が崩れて通行できないとの返事だった。

 台風10号接近で何となくざわざわしていることもあって当初の予定がだんだん萎んでくる。
今回はやはり無理か。
国道から町のようすをカメラに納めるがいまひとつしっくりこない。
なぜか。
この国道より中に地元の旧道があるのだ。そして民家はそこに向いて建っている。
狭い道に入ってみた。
誰もいないはずなのに家の中から視線を感じる。
見られているかも、と思うとシャッターは切れなかった。
(以下、次号)  

周防大島の旅(4)

周防大島文化交流センター(2)

展示資料室には、宮本の著作などの書籍が閲覧できるコーナーもある。
写真にしろノート、メモにしろまだ未整理のものが膨大にあり宮本の全仕事が
世に公表されるにはまだ時間がかかりそうだ。

ところで、この館が「文化交流センター」であって、なぜ「宮本常一記念館」ではないのか。
それが私には始め不可解だった。

彼の遺品ともいえるモノはないのか。
あった。
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ガラスケースの中にわずかに並べられている彼の愛用した品々。
キャノン、アサヒ製のカメラ、そろばん、虫眼鏡、髭剃り、水筒、めがね、お守りなど。
飛鳥資料館の会員証、万葉集、風土記などの文庫本。

この程度しか並んでいないのだ。
宮本はともかく「旅の人」だった。
同じ民俗学者でも柳田国男のように書斎にこもる研究者ではなかった。
リュックを背負いこうもり傘を入れて、ズック靴をはいて歩き回った。
富山の薬売りと間違えられることもあった。
取材に使用したこれらの道具も単に消耗品でしかない。
ものに特別こだわったり愛着はなかったようだ。

とくに昭和15,16年には年間200日以上、実に3分の2は旅に出ていた。
全国を歩き回り、話を聞き取り、メモし、写真をとるという調査が彼の仕事だった。
旅先の村や島が彼のフィールドだった。
話し込んでは、その人の家に泊めてもらい話は深夜まで及んだという。
話す相手も決して嫌がらずむしろ大変喜んで話したというほど聞き上手だった。
今度来るのを楽しみに待っていたと言うのだ。
宮本の人柄がよく分かる。
こうして泊めてもらった民家は千軒を超えるともいわれる。

彼は、画家でも小説家でもない。
作品は撮影した写真であり聞き取りノートであった。

それこそが貴重な遺産であり、今後生かされていく資料である。
おそらく彼は顕彰されることは好まなかっただろう。
地元やそれぞれの地方の人々との交流の場になることこそ彼の意思でもあったと思う。
そういう意味で「文化交流センター」が相応しい。

没後20年を記念して企画され、5億円余の事業費をかけて、ようやく平成16年5月18日開館した。

じっくり見学したいと思ったが残念ながら時間がない。
いずれまた訪れる機会もあるだろう。
受付で「宮本常一という世界」佐田尾信著 みずのわ出版(3000円)を購入して辞去した。
(以下 次号)

2006年8月24日 (木)

周防大島の旅(3)

周防大島文化交流センター

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今回の旅の最大の目的の一つがこの周防大島文化交流センター訪問だった。
大島大橋から国道437号を東に25キロくらい走ると,
みちの駅「サザンセトとうわ」が海岸沿いに見えてくる。
それから少し走るとカマボコをふたつ並べたような建物が目に入る。
やっと着いた。
期待と安堵の気持ちが交錯している。

中に入る。
左が宮本常一の資料室、右手が学習体験室(図書室)だ。
私を見ると女性職員が笑顔で受付に走ってきた。
ふだんはあまり来訪者はないようだ。
休憩スペースに地元の小学生が3人遊んでいる。
どうやら子供は無料らしい。
常設展示観覧料、300円を支払い中に入る。

まず、目に飛び込んでくるのがここ大島の民具の展示。

「周防大島東部の生産用具」である。

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宮本の呼びかけに地元有志が収集した民具で国の重要有形民俗文化財に指定されたものが多数ある。
その一部が展示されている。
この島で営々と生きてきた庶民の生活や漁業、農業などの生産用具が集められ、いわゆる道具というものをどのように使い知恵を出しながら少しでも豊かな暮らしができるように
努力した先人達の歴史がよく分かる。
中心に展示してある木造船は、沖家室島の一本釣り漁船である。
また、この地方で自作されたカムロ釣り針がずらりと並べられている。
こうした展示をみていると圧倒されてしまう。
改良に改良を加えてより優れたモノを生み出すエネルギーとは一体何だろうか。

また、コーナーには椅子が準備され45分間のビデオが放映されている。「学問と情熱」というタイトルである。
彼のこれまでの人生と人柄が良く伝わり、思わず魅入ってしまう。
多分、彼について知らなかった人もすっかりファンになるのではないか。

パネル展示では宮本が撮影した10万枚ともいわれる写真からふるさと周防大島の昔の風景が並べられている。
(以下、次号)

2006年8月23日 (水)

周防大島の旅(2)

大島への道

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周防大島へのアクセスは通常、JR山陽本線大畠駅からバスで大島大橋を渡る。
船のルートとしては
岩国、柳井港あるいは四国の松山港から島の東端にある伊保田港に入るルートもある。

今回、私は比較的ホテルが確保しやすい広島市からレンタカーで行くことにした。
夏休みでさらにお盆と重なったために周防大島にある宿が取れなかった。

しかも台風10号が四国から九州に西進して天候は最悪の状態である。
明日はさらに近づくために身動きできない事態も考え、1日早めたのだ。

広島市内から山陽自動車道で山口県の玖珂ICまでおよそ70キロ。
さらに柳井市内経由で大島大橋のある大畠まで22キロ。

柳井は白壁の町として有名で観光バスなども立ち寄る人気のスポットで
時間が許せば見てみたいと思うが今日は通過だ。

海岸線に沿って国道を東に進むと右手に壮大な橋が見えてくる。
どんよりとした空に台風特有の風が吹く。黒い雲が流れていく。

昭和51年に開通。全長1020m。すでに今年で30年が経過した。
それ以前は船で渡るしか方法がなかった。

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宮本常一が島を離れて大阪に出たのは大正12年4月18日のことで15歳だった。
ポンポン船で流れの速い海峡を渡り対岸の大畠に着いた。
そこから夜行列車に乗り大阪に向かった。

見送りにきた父・善十郎はこれだけは忘れないようにと言った言葉がある。
常一はこれをメモに残し後々まで大切に守った。

今、私の部屋にはこの言葉を書き写したものが貼り付けてある。

(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺か、そういうところをよく見よ。
駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。
また、駅の荷物場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。
そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

こうした言葉が10か条として書かれている。
時代が進み、現在と違うところはあるが、この精神は変わっていないと思う。
むしろ、こうした大切な気持ちが今忘れられているのではないかとも感じる。

私は、宮本に出会うまえにも、車窓から外の景色を見ているのが好きだった。
そして、旅に出ると、このあたりは赤い屋根が多いとか、民家のつくりがどうだとか
このあたりはどんな生活をしているのか、ふと考えたりしていたようだ。

宮本のこの10か条は私のぼんやりとした思いを充分に納得させるものだった。
そして、宮本の生きかたに共感を覚えた。

大橋を渡り左折して国道437号線をひたすら東に進む。
いよいよ念願の島に入った。
(以下次号)

2006年8月21日 (月)

周防大島の旅(1)

宮本常一のふるさと・周防大島
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夏の休暇を利用して「念願の」周防大島へ行った。
瀬戸内海にある島で淡路島、小豆島に次いで3番目に大きな島である。

しかし、そのわりに名が知られていない。
位置的には広島湾から南へ60キロほど行ったところにある。

島の形は、金魚のようだといわれる。確かに地図を見ると納得できる。
山口県大島郡に所属している。人口はおよそ2万人。

大きな産業もない。
町は「みかんとレジャーのアイランド」のキャッチフレーズで若者を呼び込んでいる。
けれどもローカル的な範囲にとどまる。

私を周防大島へ駆り立てたのは
民俗学者・宮本常一のふるさとを一度見ておきたかったからである。

4年ほど前になるが
雑誌に宮本のことが紹介されたのをキッカケに
彼の著書 「忘れられた日本人」 「家郷の訓」 (岩波文庫)
「民俗学の旅」 (講談社学術文庫)
などを読み始めた。

読めば読むほど彼の魅力に引き付けられていく。
彼は単なる民間伝承の記録者ではなかった。
そこに住む人達と一緒になってどうすれば暮らしがよくなるか考え
そして、実際に行動したのである。

日本全国をくまなく歩いた。
山村から離島まで彼の足跡を赤いペンでたどると
日本地図は真っ赤になるといわれた。

明治40年に周防大島で生まれ、昭和56年に73歳で亡くなるまで、
やさしい眼差しで人々のくらしを見つめ考えていた。

そんな宮本を生んだ周防大島とはどのような風土なのか

1昨年、2004年に彼の記念館ともいうべき「周防大島文化交流センター」がオープンしたのをきっかけに今回の旅となった。
(以下、次号)

2006年8月12日 (土)

暑いぞ 揖斐川町!

いやぁ~暑い暑い
このところ毎日猛暑が続いている。
38度や39度といった数字が新聞、テレビで連日報道されている。
そのなかで、10日、岐阜県揖斐川町が39.1度で日本で一番の猛暑とかいっている。
なんでやのぉ~?
揖斐川町は濃尾平野の一番北西にあって
山間部から流れてきた揖斐川が平野に出る位置にあるんだ。
盆地でもないし、どう見ても極端に暑くなるわけないじゃん。

ところが誰だったか忘れたが、
観測してるところが駐車場に近いので車の排気ガスで上がるんじゃないか?
といううわさを聞いた。
真偽のほどは分からない。

気になったので調べに行ってきました。
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向こうに見える建物が揖斐川町役場です。
そして広い駐車場があり、手前に観測機器が設置してありました。
扉の裏側に「揖斐川地域気象観測所」とあり
「気象災害から守るための大切なものだから柵の中に入らないでください。
岐阜地方気象台」
と書いてあった。

すぐ前は確かに駐車場だ。
今日はたまたま休庁日で車もほとんどいない。
でも、アスファルト舗装のため時々熱風が吹き付ける。
そうするとやっぱり1~2度は体感より高いかも!
ム~、このことをどう思うか?

でも前向きに考えれば全国に「揖斐川町」の名が売れるチャンスだから
町長さんでなくても喜んでるかもしれないな。

最近、サッカー日本代表監督にジーコからオシムに変わったが
このイビチャ・オシムという名前を利用して「揖斐茶」を全国に売り込みたい
なんていう声もまことしやかに聞こえてくる。
こうした流れに便乗してしまうというのもいいかもね。

そりゃ、揖斐川町といっても、木曽三川の「揖斐川」とか「いびがわマラソン」ぐらいしか知られていないのだから。
このチャンスを利用しない手はないよな!

ところで
昨年、1月31日、平成の町村大合併というやつで坂内、藤橋、久瀬、春日、谷汲の5つの村と合併し滋賀県、福井県とも隣接する大きな「新・揖斐川町」となった。

これにより「沈む村の徳山ダム」や「脱いで納める美濃の谷汲という西国33ヶ所の谷汲・華厳寺」なども地域に取り込まれたんだが。
しかしこれだけではねぇ~

今、全国の地方は疲弊しきっている。
ここだって例外ではないの。
山間部の離村、高齢化、地域医療、産業育成など先行き暗いことが多くて。
でもね、そうはいっても、生きなきゃならないんだ。
したたかになるしかないのさ。
「揖斐川町 猛暑日本一の記録」も大いに結構さ!

2006年8月 9日 (水)

完璧な無用庇です

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綺麗に手が入れられた2階の壁。
でも、気づいた?
この庇は何のためにあるの?

かつて庇の下に窓があったが何らかの理由で閉鎖されたようだ。
でも庇だけは残してきれいに修復した。

超芸術トマソンの世界ではこれを無用庇(ひさし)と分類する。
あっても役に立たない無用のものだが残されたんだ。

街の中、歩いているとこんな類のものをけっこう発見する。
これをつくった人は、芸術品をつくろうと意識していない。

そして気付く人もいない。
遊び心を持った人、あるいは夢の中で街をうろつく人が
これを偶然発見する。

その時から、この物件が光を放つ。
しかし、消滅するのもはやい。
本来、壊される運命にあるものだからだ。

足元見て歩くのもいいけど、
時には見上げてみよう。

(名古屋市緑区鳴海町)

2006年8月 7日 (月)

残ったお隣さん(4)

Photo_31

何かヌーボーとしてすっとんきょうな間抜け面しているな。
それでも、きっちり残しているところはなかなかのもんだ。

ちゃっかりしてる点は弟らしい。

でしゃばるほど主張しないし
けど、残すところはきちんとしてる。

(岐阜県大垣市)

モリゾービル出現!

Photo_30

愛知万博は終わった、というのにモリゾーが出たぞ!
人気者のモリゾーとキッコロは森に帰っていったはず。

でも、あれだけ子どもから若い娘まで「モリコロ」ブームを巻き起こした彼らだ。
素直に森に帰れないさ。

その中の一人。
とうとう街の中で市民権を得てしまって、今では結構なじんでいるよ。

すこし、モコモコした感じはするけど
近所では「モリゾービル」とか「2005年記念ビル」と言われてるかも。

(岐阜県大垣市田町)

2006年8月 6日 (日)

電線マンすずめ

Photo_29

電線にすずめが○羽とまってた。それを猟師が鉄砲で撃ってさ。

かつてよく流行っていた歌を思い出す。伊藤四郎のはまり役。
これは少々手抜きの「電線音頭」かな~

こんなことを思い出したぞ!

京都・伏見稲荷の参道につづく商店街はすずめの焼き鳥が名物。
ものは試しと1串頼んで、みやげに持ち帰ったことがある。

食べてみると骨も肉も硬くてそれほど美味くない。
よく朝のこと。
家の周りの電線に数十匹のすずめが大騒ぎ。
なにごとか!

すずめを食したことに対する抗議行動らしい。
伏見からの連絡で抗議活動に自主的に集まったらしい。

「ごめん」と誤ったらすずめ軍団はいずこともなく飛んでいった。

もうすずめは食わんと固く誓ったのだった。

怪しいのは誰だ!

Photo_28

最近、子供が事件に巻き込まれ殺されることが多発している。
そしてそれは都会も田舎もない。

ついに、こんな看板まで表われた。
「不審者出没注意」
不審者は見た目では区別がつかない。

捕らえてみたら隣の奥さんだったり、家族だったりする。
人を信じられない時代。

「こども見守り隊」なんていうのも発足した。
集団登下校しても、そこから自宅までが危険だという。

「子供110番」という看板もある。
危険を感じたら駆け込む地域の拠点だ。

こうまでしても事件は減らない。
ストレス社会というけれど、なぜか誰もがイラついている。

かつては、貧しくても優しさを持っていた時代があった。
もはやそれを望むのは無理だろうか。

2006年8月 5日 (土)

ジジババ農家に激震

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青々と伸びる稲。
すずめ達から守る案山子が今でも健在だ!

スラリとした長身で美人系。
ちょっとなまめかしい、色っぽい。

今、農村では異変が起きている。
コンバインや田植え機など農業機械を手放す農家が増えている。

農政改革と称する稲作の補助金制度が変わり
今後は大規模農家や地域の法人に対してのみ補助されるシステムだ。
ジジババの零細農家は、補助金は切り捨てられる。
こつこつと働く勤勉な農家は自家消費米だけになる。

田植えから稲刈りまで毎日世話をすることはない。
愛着はなくなるさ。
だって、自分の田んぼと隣の田んぼの区別はなくなり
一つの法人組織が経営する稲作になるんだ。
今後、農業は大型機械、経営能力、地域組織のリーダーシップが
必要で、コツコツまじめだけでは倒産する。
老齢化した農業者では全く経営は成り立たない。
かといって、若者が米作りに魅力を感じるだろうか。

エロかっこ良い案山子の明日はどうなるの?

大垣駅は東西回廊の接点

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毎朝。6時53分、東海道線・大垣駅1番ホ-ムに「ムーンライト長良」が滑り込んでくる(左の電車)

ドアが開くと同時に大勢の男女が我先にドヤドヤ走りながら陸橋を渡って2番線ホームに流れていく。
7時発加古川行きに乗り換える(右の電車)
JR西日本の車両が大垣まで入るのは珍しいケースだ。

7分の接続時間で、トイレや歯磨きをするもの、売店でパンや飲み物を買ったり慌ただしい。

18切符を使う若者が大半である。
Tシャツにジーンズ、バッグを担いでいる。
色とりどりでカラフルな集団。

昨夜23時43分に東京を出発。今は全席が指定だ。
京都、大阪など関西方面へ旅する人、家に帰る学生。中にはリタイア組みの夫婦の姿もある。

大垣で下車して観光するものはまずいない。
水の都と言われ、芭蕉「奥の細道」結びの地でもあるが、単なる乗換駅として記憶されているだけ。

「水まんじゅう」も「味噌せんべい」も「柿羊羹」もうまいのに。
それに自噴水から湧き出る冷たい水は体を生き返らせる。

知ってか知らずか
旅人は、無関心。
少々哀しい。

ここから西に進むと垂井、関ヶ原と旧・中仙道ルートを東海道線が通っている。
406年も前に天下分け目の戦があった。ここ大垣もその前哨戦では歴史の舞台。
三成は大垣城で、家康は勝山でお互いにらみ合った。
心理作戦。
そして家康の作戦に三成が動いた。舞台は関ヶ原に移った。

大垣は、
今も昔も東西を結ぶ結節点であることは間違いない。
7時ジャストに発車のベルが鳴り、眠そうな集団を乗せて加古川行きが出て行った。
静けさがまた戻った。

2006年8月 2日 (水)

個人情報漏えい

Photo_27

え~!
全部、なまえ書くの~。

信じられない!
夕べ、暑かったので梨のガリガリ君食べたことや
今朝、おかめ納豆少し残したことばればれ。

(岡山県美作町)

僕らは少年消防団

Photo_26

「安全坊や」もここではもっと活動的!
消火栓とホース収納庫を守り、いつでも出動できる体勢だ!

緑の隊長の合図に、
赤のたすきの団員はもう走り出しているよ。
待て待て、焦りは禁物。

(兵庫県新温泉町・湯村温泉)

逃げ出したい!

Photo_25

カランコロンと下駄履いて、揃いの浴衣を着てさ
ここに座っていちゃいちゃされちゃあ
たまったもんではないよ。

やってられないよ!全く。
だからといってロープでくくりつけるってことは止めてよ。

じっと目つむってますよ。
まいどご馳走さん!

(兵庫県新温泉町)

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