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2006年6月 3日 (土)

水上 勉 の西美濃

地元とは全く遠い存在と思える著名人でも、あるとき身近に深い関係があることを知ると何となくその人が急接近してくる。そして親しみを感じることがある。

ある著名人にとっての「にしみの」とはどんな存在で、どう描かれ、どのように感じ取られているのか興味深いところがある。

そうした事例をすこし掘り起こしてみました。

今回は水上勉です。「金閣炎上」や「飢餓海峡」など有名ですが、2004年9月に亡くなりました。85歳でした。

近くの図書館で水上勉の著作から単行本「たそ彼れの妖怪たち」をぱらぱらめくっていたら偶然にも、「美濃のおいずる」という短編が目にとまった。

「美濃の笈摺(おいずる)」とは、西国33ヶ所霊場巡礼の最後の札所谷汲山華厳寺における花山天皇御製のご詠歌に「いままでは、親とたのみし、おいずるを、脱ぎておさむる、美濃の谷汲」からきている。私もこの御詠歌だけは知っていました

水上勉が京都・等持院で小僧をしていたときの友人・衣斐陽三(いび・ようぞう)のことがこの話の中心となっている。

衣斐は美濃池田の生まれで故郷のことを水上に自慢していたという。「赤坂山にマッチ石の出るとこがあるんや。よく乗合馬車で遊びに行ったもんだ。近くには、揖斐という大きな川があるぞ。それから観音さんの祭ってある谷汲さんがあるねん」

陽三は2歳年上にもかかわらず妙に気があった友である。

等持院でふたりが小僧をしていたあるときとんでもない事件を起こしてしまう、なんと本堂の下で、池の鯉を喰って、和尚にみつかり、門の外に放り出されてしまうのである。

すぐさま、水上は若狭から大工の父が、衣斐は美濃池田から養母が京都に来て平謝りしてやっと許されたというのである。

その後ふたりは別々の道を歩んだ。水上にはその後衣斐の消息が不明だった。

そして終戦から7年後に陽三が死んでいたことがわかったのである。結核だった。そのころ後輩にあたる西尾勇司が「どうせ死ぬなら美濃で死にたい」という陽三の願いを聞いて40度近い熱のある陽三をやっとのおもいで美濃池田に送り届けた。

しかし、1年後再び京都に戻り終戦の年の春、等持院で死んだという。

一時的に美濃の池田にもどり静養していた頃、禅寺・瑞巌寺でも静養していたらしい。

水上は、京都で死んだ陽三のこころはきっと美濃の在所で眠っているのだろうと思うと哀しくなる。

陽三の愛した故郷の道を一度歩いてみたい。水上はそうしてこの地を訪ねたのである。

衣斐には出生の秘密があった。「わいのおっ母は、メカケやった。お父つぁんは学校の校長さんであった」「養母のタバコ屋で世話になっていた」それ以上のことは話さなかった。

水上の旅は大垣駅から始まる。タクシーに乗り、赤坂山、池田山を見て、神戸に入り、揖斐川を渡り、再び神戸(ごうど)から谷汲山へと向かう。そして最後に禅寺の瑞巌寺を訪ねたようだ。

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そうした中、水上は「やはり陽三が病躯を押して衣笠山から、美濃の故郷へ帰りたかった心には、単に帰巣のこころばかりでなく、誰かにひきよせられたのだと思える。誰かとは観音であるか、谷汲山の幟にふきつけていた風の音であったか。私にはわからない。」と締めくくっている。

確かに近江から美濃にかけては観音信仰が盛んだといっていい。

無意識の中にも、病苦や、死の苦について自然と手を合わせる信仰が今でも根付いているのかもしれない。

私も谷汲さんは、毎月のようにおまいりする。特に願掛けをしているわけではない、日常生活の延長のような自然な気持ちである。にしみの人がとりたてて信仰深いということを意識していない。ただ、多くの巡礼者が風のように表われそしていずこへと去っていく異邦人に観音さまの生きづかいを感じとっているのかもしれない。

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